「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第2回 三省堂を築いたひと・亀井忠一

筆者:
2018年8月15日

ひとにぎりの天才たちによる「種字彫刻」という神わざから、紙に原字[注1]を描く文字デザインへ。その飛躍を可能にした「ベントン」と呼ばれるアメリカ生まれの機械を、日本で最初に使いこなしたのは、三省堂だった。

 

一般に「三省堂」という名前を聞いて、思い浮かべるものはふたつあるのではないだろうか。

 

ひとつは、東京・神保町に本店をもつ大型書店「三省堂書店」。

そしてもうひとつは、『三省堂国語辞典』や『コンサイス英和辞典』、赤瀬川原平のベストセラー『新解さんの謎』(文藝春秋、1996)で社会現象にまでなった『新明解国語辞典』などの出版社である「三省堂」だ。

そのルーツは、明治14年(1881)に亀井忠一・万喜子夫妻によって創業された「三省堂書店」である。大正4年(1915)に出版と印刷部門が株式会社三省堂として誕生して以降、別法人となっている。

まずは創業期までさかのぼり、三省堂とはどんな会社だったのかを見ていきたい。

 

 

三省堂の創業者・亀井忠一は安政3年(1856)生まれ。明治6年(1873)に静岡から一家をあげて上京し、兄の石川貴知から譲り受けて、麹町13丁目(現在の新宿区三栄町付近)に履物屋を開業した。親切と勉強を信条とし商売はうまくいっていたが、明治14年(1881)2月、四谷区箪笥町から出火し約1490戸を焼いた大火で焼失してしまう。

三省堂創業者・亀井忠一

三省堂創業者・亀井忠一

やむなく身を寄せた神田美土代町の兄・石川貴知宅は、今度は古本屋「桃林堂」を営んでいた。兄の商売を見た忠一は、妻の万喜子とともに古本屋をやってみようと決める。創業は明治14年(1881)4月8日。忠一25歳のときのことだ。場所はすずらん通りに面した神田区裏神保町一番地、現在の三省堂書店神保町本店の東南の隅あたりである。

 

古本屋を始めたいと相談したとき、兄は猛反対した。自身の「桃林堂」も小さな店で、成功しているとはいえない。ましてや忠一には経験も学問もなかったからだ。しかし忠一は、「商売をやるのには中途半端に学問があるひとよりも、無学の自分のほうがやりやすいのでは」と考えた。

 

古本屋を開業して2年も経つと、忠一は今度は出版業に着手した。当時の洋学研究旺盛な空気を受けて、最初の出版は明治16年(1883)2月、『ウヰルソン氏第一リードル独案内』の翻刻。やがて、辞書や教科書の出版を手がけるようになっていった。

『ウヰルソン氏第一リードル独案内』(三省堂、1883)

※写真はすべて『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 原字:活字をつくる際、その原型や字母をつくるために書体設計者(デザイナー)が紙に描くレタリング(スケッチ)のこと。原図ともいう。

[参考文献]

  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。