「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第1回 はじめに

筆者:
2018年8月1日

「書体」とはなんだろう?

いま目にしている文字のかたち。コンピューターやスマートフォンの画面に表示されたり、本や雑誌、新聞など紙に印刷された文字を見ると、ある特定の様式でデザインされていると感じないだろうか?

 

この「ある特定の様式でデザイン」された文字のセットが「書体」だ。似た言葉として「フォント」がある。「フォント(font)」はもともと「同じ書体デザイン・同じサイズの活字のひとそろえ」を指す言葉だったが、コンピューターが身近になるにつれ、文書作成ソフトなどで「フォント」という言葉にふれる機会が増えて、「書体」よりむしろ「フォント」という言葉のほうがひろく知られるようになり、同じ意味で使われるようになってきた。

 

今回から始める連載には、「『書体』が生まれる」という壮大なタイトルがついている。でもここで取りあげるのは、大正から昭和なかばにかけてのごく限られた時期のできごとだ。

 

現在は印刷といえばオフセット[注1]が主流だが、明治から昭和のある時期までは、金属活字をもちいた「活版印刷」が中心だった。金属活字とは、金属の角柱の表面に文字が凸刻された、ハンコのようなものを想像してもらえばよいだろうか。コンピューターでは文字はキーボードを打てばすぐさま並べられるが、活版印刷の時代は、金属活字を1本1本組み上げてレイアウト(組版)していた。本1冊ともなれば、何万字分の活字を拾い、組み上げて印刷していたのだ。

金属活字

活字組版

そんな金属活字の時代、印刷にもちいられる書体は最初、「種字彫刻師」というごく限られた天才の頭のなかにのみあるものだった。当時、活字のおおもととなる種字は、マッチ棒ほどの小さな活字材に職人が原寸・逆字で手彫りしており、その仕事は難易度のとても高いものだった。

 

それがやがて、紙に拡大サイズの正字(そのままの向き)で描いて書体デザインを行なえるようになっていった。現代にもつながるそうした文字デザインの手法が現れた背景には、「ベントン」と呼ばれるアメリカ生まれの機械の導入と、かつての手彫り種字の良さを引き継ぎながら、新たな文字デザインの手法を切りひらき、あたらしい機械を使いこなして美しい文字をつくろうとひたすらに奔走したひとびとの存在があった。きっかけをつくったのは三省堂である。

 

いったい現場には、どんなひとたちがいて、どんなふうに書体づくりに取り組んでいたのか。どんなひとたちが未知の機械を手に入れ、その技術をひろげていったのか。

“「書体」が生まれる” そのときをめぐる、現場の奮闘をたどっていきたい。

※写真はすべて筆者撮影

[注]

  1. オフセット印刷:水と油が反発しあう特性を利用し、版にインキがつく部分とつかない部分をつくっておこなう平版印刷の一種。現在主流となっている印刷方式。

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
このウェブサイトのリニューアルを記念した連載です。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。