『日本国語大辞典』をよむ

第6回 オノマトペ④:セミの名前と鳴き声

筆者:
2017年4月23日

夏目漱石『吾輩は猫である』の七に「人間にも油野郎、みんみん野郎、おしいつく/\野郎がある如く、蟬にも油蟬、みん/\、おしいつく/\がある。油蟬はしつこくて行かん。みん/\は横風で困る。只取つて面白いのはおしいつく/\である。是は夏の末にならないと出て来ない」という行(くだ)りがある。

東京近辺では、夏になってもセミの鳴き声があまり聞こえなくなってきたように感じる。筆者は神奈川県鎌倉市のうまれなので、小学生の頃には、夏になるとセミがうるさいくらい鳴いていた。上の文章中で夏目漱石は採りあげていないが、あちらこちらから響き合うように聞こえてきたヒグラシの鳴き声が懐かしく、もう一度あんな風に鳴いているヒグラシを聞いてみたいと思う。
 ヒグラシはカナカナと呼ばれることもある。

かなかな〔名〕(その鳴き声から)昆虫「ひぐらし(日暮)」の異名。

ヒグラシの鳴き声を「カナカナカナカナ…」と聞きなすのは、自然に思われる。また、ヒグラシの鳴き声は同じ聞こえ(「カナ」)がずっと繰り返していくので、いわば単純な鳴き声ともいえよう。それに比べて、ツクツクホウシの鳴き声は「複雑」だ。

つくつくぼうし〔名〕(1)(「つくつくほうし」とも)カメムシ(半翅)目セミ科の昆虫。(略)七月下旬から一〇月初旬頃までみられ、八月下旬に最も多い。「つくつくおーし」と繰り返し鳴く。北海道南部以南、朝鮮、中国、台湾に分布する。つくつく。つくつくし。おおしいつく。くつくつぼうし。つくしこいし。ほうしぜみ。寒蟬。

「語誌」欄には「(1)平安時代にはクツクツホウシ(ボウシ)と呼ばれていたようである。(略)(2)鎌倉時代になると、ツクツクの形も辞書にのり始め、ツクツクとクツクツの勢力争いといった形になる。しかし室町初期には「頓要集」などツクツクの形のみ記したものも登場し、室町後半にはこれが主流となる。(略)(5)現代ではその鳴き声を「おーしいつくつく」ときくこともある」とある。

平安時代には「クツクツホウシ(ボウシ)と呼ばれていた」に驚かれた方もいるのではないだろうか。『日本国語大辞典』には次のように見出し項目がある。

くつくつぼうし〔名〕昆虫「つくつくぼうし」に同じ。

使用例も少なからずあがっており、その中には1275年に成ったと考えられている『名語記(みょうごき)』も含まれている。「クツクツ」を繰り返せば「クツクツクツクツ…」となり、この音の連続は切りようによっては、つまり聞きようによっては、「ツクツク」になる。実際のヒグラシの鳴き声は「ツクツク」あるいは「クツクツ」がずっと繰り返されるわけではないが、とにかく「ツクツク」と「クツクツ」とは仮名の連続としてみると違うが、音の連続としては「近い」。

さて、上の『日本国語大辞典』の記事で気になった点がある。引用の中に「つくつくおーし」、「おーしいつくつく」と書かれている。「現代仮名遣い」においては、平仮名で書く場合には長音に「ー」を使わない。そして一方では「おおしいつく」と書いている。筆者は、なぜ非標準的な書き方を使ったのかとすぐに思ってしまう。おそらく「おおしいつく」の発音は「オーシイツク」という長音を含んだものではなく「オオシイツク」である、ということだろうと思う。そうであれば、「つくつくおおし」と書くと「ツクツクオオシ」という発音だと勘違いされるから、ここはそうではなくて「ツクツクオーシ」という長音を含んだかたちなのだ、ということを示した書き方なのだろう。しかし、それがうまく「読み手」に伝わるだろうか、と気になる。因果なものです。

筆者が小学生の頃に、夏休みに奈良県にいる叔母の家に泊まりにいったことがあった。すると今まで聞いたことのないセミが鳴いているのでびっくりした。それがクマゼミだった。現在では温暖化のためか、東京でも時々耳にすることがあるので、次第に生息域を拡げていったのだろう。クマゼミの鳴き声は筆者の聞きなしでは「シャワシャワシャワシャワ」というような感じだ。『日本国語大辞典』をみてみよう。

くまぜみ【熊蟬】〔名〕カメムシ(半翅)目セミ科の昆虫。日本産のセミ類のうち最も大きく体長四~五センチメートル、はねの先端までは七センチメートルに近い。体は全体に黒く光沢がある。(略)盛夏のころシャーシャーと続けて鳴く。西日本ではセンダン、カキなどに多い。関東地方以南の各地に分布。うまぜみ。やまぜみ。わしわし。

『日本国語大辞典』の語釈記述をした人の聞きなしは「シャーシャー」のようだが「ワシワシ」という聞きなしもあることがわかる。見出し項目「わしわし」をみると、「大勢がしゃべりたてているさまを表わす語。わいわい」とあって、「方言」の【一】の(3)に「大きな蟬(せみ)の鳴き声を表わす語」とあり、【二】に「虫、くまぜみ(熊蟬)」とある。

「クマゼミ」の「クマ」は黒色及び大きいことに由来していると思われる。「クマ(ン)バチ」と同じようなことだ。語釈中にみられる「ウマゼミ」は大きさを「ウマ(馬)」で表現しているのだろう。大きいものは「クマ」「ウマ」と名づけるというところもまたおもしろい。

小さいセミとしてはニーニーゼミがいる。ニーニーゼミは夏前に鳴きだすセミとして印象深かったが、これも最近ほとんど鳴き声を聞いたことがない。

にいにいぜみ【―蟬】〔名〕(略)各地に普通にすみ、梅雨あけの頃から現われ、鳴き声はニーニーまたはチーチーと聞こえる。日本各地、朝鮮、中国、台湾に分布する。ちいちいぜみ。こぜみ。

ここまでくるとアブラゼミが気になるが、見出し項目「あぶらぜみ」の語釈には「セミ科の昆虫。体長(翅端まで)五・六~六センチメートル。日本各地で最も普通に見られるセミ(略)あかぜみ。あきぜみ」とあって、「アカゼミ」「アキゼミ」と呼ばれることがあることがわかる。 

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ //japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
 本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。