タイプライターに魅せられた男たち・第145回

フランツ・クサファー・ワーグナー(12)

筆者:
2014年8月28日

ワーグナーとハーマンは、しかし、ハートフォードへは行かず、マンハッタンで機械工を続けることを選びました。さらに、1903年1月29日にはワーグナー・タイプライター社を解散し、同時に、アンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社を、アンダーウッド・タイプライター社に改組しました。ワーグナーは、この時点で、タイプライター事業からは手を引くことにしましたが、ハーマンはアンダーウッド・タイプライター社に残り、「Underwood Typewriter」の改良を続けることになりました。一方、社長のアンダーウッドは、アンダーウッド・タイプライター社を全米一、いや、世界一のタイプライター会社にする、という野望を抱きはじめました。世界最大のタイプライター工場をハートフォードに作り、ビージー通りのアンダーウッド・タイプライター本社を摩天楼にしてみせる、と息巻いていたのです。

1905年7月4日、ワーグナーは妻ゾフィーとともに、蒸気船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号(Kaiser Wilhelm der Grosse)で、ニューヨーク港を出帆しました。船の目的地はブレーマーハーフェン、ワーグナー夫妻にとっては、41年ぶりのドイツでした。41年前には1ヶ月半を要した海路が、わずか1週間にまで短縮されていました。6週間に渡るドイツ滞在の後、8月22日、ワーグナー夫妻は、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号でブレーマーハーフェンを発ち、8月29日、ニューヨーク港に帰国しました。

1907年1月23日のニューヨーク・タイムズ紙は、ワーグナー・タイプライター社が勝訴したことを伝えました。すでにワーグナー・タイプライター社は解散していたのですが、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社やアメリカン・ライティング・マシン社との特許紛争は、形を変えながらずっと継続しており、控訴代理人のフォン・ブリーゼンが、1月8日に、巡回控訴裁判所の判決の一つを勝ち取ったのです。それを見届けたかのように、1907年3月8日、ワーグナーは永眠しました。69歳でした。

4年後の1911年6月1日、アンダーウッド・タイプライター社は、マンハッタンのビージー通りに、19階建ての本社ビルを完成しました。ハートフォードの工場も、増築に増築を重ね、まさに世界最大のタイプライター工場となっていました。アンダーウッド・タイプライター社の売上は、ユニオン・タイプライター社傘下3社[Remington(Smith Premierを併合),Caligraph,Yost(Densmoreを併合)]の合計を遥かに超えており、名実ともに世界一のタイプライター会社となりました。それは、確かにアンダーウッドの夢だったのですが、さて、ワーグナーの夢はどうだったのでしょうか。

アンダーウッド・タイプライター本社の摩天楼とハートフォードの工場(『The Sun』1911年6月2日号)

アンダーウッド・タイプライター本社の摩天楼とハートフォードの工場(『The Sun』1911年6月2日号)

(フランツ・クサファー・ワーグナー終わり)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。