ワーグナーとハーマンは、しかし、ハートフォードへは行かず、マンハッタンで機械工を続けることを選びました。さらに、1903年1月29日にはワーグナー・タイプライター社を解散し、同時に、アンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社を、アンダーウッド・タイプライター社に改組しました。ワーグナーは、この時点で、タイプライター事業からは手を引くことにしましたが、ハーマンはアンダーウッド・タイプライター社に残り、「Underwood Typewriter」の改良を続けることになりました。一方、社長のアンダーウッドは、アンダーウッド・タイプライター社を全米一、いや、世界一のタイプライター会社にする、という野望を抱きはじめました。世界最大のタイプライター工場をハートフォードに作り、ビージー通りのアンダーウッド・タイプライター本社を摩天楼にしてみせる、と息巻いていたのです。
1905年7月4日、ワーグナーは妻ゾフィーとともに、蒸気船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号(Kaiser Wilhelm der Grosse)で、ニューヨーク港を出帆しました。船の目的地はブレーマーハーフェン、ワーグナー夫妻にとっては、41年ぶりのドイツでした。41年前には1ヶ月半を要した海路が、わずか1週間にまで短縮されていました。6週間に渡るドイツ滞在の後、8月22日、ワーグナー夫妻は、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号でブレーマーハーフェンを発ち、8月29日、ニューヨーク港に帰国しました。
1907年1月23日のニューヨーク・タイムズ紙は、ワーグナー・タイプライター社が勝訴したことを伝えました。すでにワーグナー・タイプライター社は解散していたのですが、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社やアメリカン・ライティング・マシン社との特許紛争は、形を変えながらずっと継続しており、控訴代理人のフォン・ブリーゼンが、1月8日に、巡回控訴裁判所の判決の一つを勝ち取ったのです。それを見届けたかのように、1907年3月8日、ワーグナーは永眠しました。69歳でした。
4年後の1911年6月1日、アンダーウッド・タイプライター社は、マンハッタンのビージー通りに、19階建ての本社ビルを完成しました。ハートフォードの工場も、増築に増築を重ね、まさに世界最大のタイプライター工場となっていました。アンダーウッド・タイプライター社の売上は、ユニオン・タイプライター社傘下3社[Remington(Smith Premierを併合),Caligraph,Yost(Densmoreを併合)]の合計を遥かに超えており、名実ともに世界一のタイプライター会社となりました。それは、確かにアンダーウッドの夢だったのですが、さて、ワーグナーの夢はどうだったのでしょうか。
(フランツ・クサファー・ワーグナー終わり)