タイプライターに魅せられた男たち・第146回

山下芳太郎(1)

筆者:
2014年9月4日
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カナモジ運動の祖、山下芳太郎は、1871年12月24日(明治4年11月13日)、宇和島県の吉田に生まれました。中等教育の後、1887年9月、東京高等商業学校に進学した山下は、勉学のかたわら、メソジスト系のリバイバル運動に熱を上げていました。いとこの芝染太郎の勧誘で入信したキリスト教でしたが、時おりしもスウィフト(John Trumbull Swift)が、アメリカ本国のYMCAから派遣されてきたこともあって、山下は、学生YMCA設立へと奔走します。ただ、スウィフトの説く福音主義は、日本の学生クリスチャンにとって、ややもすると、違和感のあるものだったようです。

山下は、先輩の奥野広記とともに、東京高等商業学校の寄宿舎を出て、駿河台周辺の下宿屋を転々としていました。奥野は肺を病んでおり、そのために寄宿舎を出ることになったのですが、山下は奥野を非常に慕っており、奥野とともに寄宿舎を出ることにしたのです。奥野は、東京外国語学校でロシア語を専攻していたのですが、外国語学校と高等商業学校の合併にともない、東京高等商業学校に移ってきた学生でした。この合併のゴタゴタで、二葉亭四迷こと長谷川辰之助は、高等商業学校を中退してしまったのですが、奥野とはウマが合ったらしく、山下と奥野の下宿をしばしば訪ねてきていました。

合併に端を発した東京高等商業学校におけるゴタゴタは、この頃には、学生による矢野二郎校長の排斥決議にまで至っていました。矢野校長の辞任を求めて、学生ストライキを断行すべく、富士見楼で学生集会がおこなわれたのです。この集会において、山下は、あくまでストライキ反対の意見を表明しました。ストライキをおこなったところで、問題の解決には結びつかず、粘り強く団交や上申をおこない続けるべきだ、と考えたのです。しかし、山下の意見とは裏腹に、学生紛争の嵐は、その後も東京高等商業学校を吹き荒れ続けることになるのです。

一方、YMCAでもゴタゴタが起こっていました。木村駿吉が率いる東京大学YMCAは、日本社会におけるキリスト教のあるべき姿を問う、という方針を掲げて活動を進めていました。1890年7月に開催された「第2回夏期学校」においても、アメリカ本国YMCAの福音主義に反して、独自の路線で夏期学校の講義内容を決めていきました。木村の路線は、どうしても対外排斥主義的で、山下にはなじめないものでした。かと言って、スウィフトをはじめとするアメリカ本国YMCAの福音主義一辺倒というのも、それはそれで日本での布教に向いているとは思えなかったのです。奥野の勧めもあって、山下は、学生YMCAの活動から、徐々に手を引いていきました。それとともに、キリスト教への信仰心も薄れていき、仏教や儒教への関心が強くなっていったのです。

山下芳太郎(2)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。