カナモジ運動の祖、山下芳太郎は、1871年12月24日(明治4年11月13日)、宇和島県の吉田に生まれました。中等教育の後、1887年9月、東京高等商業学校に進学した山下は、勉学のかたわら、メソジスト系のリバイバル運動に熱を上げていました。いとこの芝染太郎の勧誘で入信したキリスト教でしたが、時おりしもスウィフト(John Trumbull Swift)が、アメリカ本国のYMCAから派遣されてきたこともあって、山下は、学生YMCA設立へと奔走します。ただ、スウィフトの説く福音主義は、日本の学生クリスチャンにとって、ややもすると、違和感のあるものだったようです。
山下は、先輩の奥野広記とともに、東京高等商業学校の寄宿舎を出て、駿河台周辺の下宿屋を転々としていました。奥野は肺を病んでおり、そのために寄宿舎を出ることになったのですが、山下は奥野を非常に慕っており、奥野とともに寄宿舎を出ることにしたのです。奥野は、東京外国語学校でロシア語を専攻していたのですが、外国語学校と高等商業学校の合併にともない、東京高等商業学校に移ってきた学生でした。この合併のゴタゴタで、二葉亭四迷こと長谷川辰之助は、高等商業学校を中退してしまったのですが、奥野とはウマが合ったらしく、山下と奥野の下宿をしばしば訪ねてきていました。
合併に端を発した東京高等商業学校におけるゴタゴタは、この頃には、学生による矢野二郎校長の排斥決議にまで至っていました。矢野校長の辞任を求めて、学生ストライキを断行すべく、富士見楼で学生集会がおこなわれたのです。この集会において、山下は、あくまでストライキ反対の意見を表明しました。ストライキをおこなったところで、問題の解決には結びつかず、粘り強く団交や上申をおこない続けるべきだ、と考えたのです。しかし、山下の意見とは裏腹に、学生紛争の嵐は、その後も東京高等商業学校を吹き荒れ続けることになるのです。
一方、YMCAでもゴタゴタが起こっていました。木村駿吉が率いる東京大学YMCAは、日本社会におけるキリスト教のあるべき姿を問う、という方針を掲げて活動を進めていました。1890年7月に開催された「第2回夏期学校」においても、アメリカ本国YMCAの福音主義に反して、独自の路線で夏期学校の講義内容を決めていきました。木村の路線は、どうしても対外排斥主義的で、山下にはなじめないものでした。かと言って、スウィフトをはじめとするアメリカ本国YMCAの福音主義一辺倒というのも、それはそれで日本での布教に向いているとは思えなかったのです。奥野の勧めもあって、山下は、学生YMCAの活動から、徐々に手を引いていきました。それとともに、キリスト教への信仰心も薄れていき、仏教や儒教への関心が強くなっていったのです。
(山下芳太郎(2)に続く)