鎌倉の材木座へと奥野が去った後、山下は、1892年7月に東京高等商業学校を卒業しました。陸軍で約1年間の兵役を終え、1893年12月には外務省に入省しました。奥野や長谷川が果たせなかった外交官の道を、山下が目指すことにしたのです。1894年3月には、第1回外務書記生試験を首席で合格、7月、在孟買(ムンバイ)帝国領事館に書記生として着任しました。ただしこの時点では、まだムンバイに領事は着任しておらず、帝国領事館の立ち上げをおこないながら、9月の呉大五郎の着任を待ったのです。インドには、まだ在外公館は一つもなく、ムンバイの帝国領事館が、インドで最初の在外公館となりました。
その後、山下は、1896年2月、在里昂(リヨン)帝国領事館に異動ののち、1896年4月、在倫敦(ロンドン)帝国領事館に異動となりました。ここで山下は、セイラー(Clarence Heinrici Seyler)という人物に出会っています。在倫敦帝国領事館はビショップスゲート84番地にあって、斜め向かいにクロスビー・ホールがありました。山下は、いつもこのクロスビー・ホールで昼食をとっていました。クロスビー・ホールには常連客が多く、山下も、それらの常連客と話す機会が増えていったのですが、中でもかなり見識の深い老紳士がいました。年のころは50歳ばかりでしょうか、この人物がセイラーでした。
ロンドン郊外のハックニーにあるセイラーの自宅に招かれた山下は、そこで壁一面の蔵書を見ました。哲学書を中心とする膨大な数の蔵書に、どれもいちいち詳しい注釈が書き加えられていて、セイラーが蔵書を全て精読しているのが、山下にも見て取れました。どの書物から読み始めるべきか、と、教えを乞う山下に、セイラーは、フィスク(John Fiske)の『Outlines of Cosmic Philosophy』全2巻を示しました。スペンサー(Herbert Spencer)の進化論を、かなり易しく書き改めた書物です。
山下は、『Outlines of Cosmic Philosophy』をみずから買い求め、日曜日のたびごとにセイラーの自宅に出向いて、セイラーを質問攻めにしました。進化論は、山下にとって全く新しい学問で、先生となるのはセイラーしかいませんでした。セイラーは、山下に快く応え、さらに読むべき書物を次々に示しました。実はセイラーは、末娘のアテネ(Athene Seyler)を、授業に進化論を取り入れている小学校に行かせているほどで、かなり先進的な進化論者だったのです。社会進化論と呼ばれる、ある意味、進化と進歩を同一視する哲学論を、こうして山下は自らの中に吸収していったのです。
(山下芳太郎(3)に続く)