漢字の現在

第192回 佐賀弁と漢字

筆者:
2012年6月8日

佐賀仁○加(にわか)は、文字化したものをあらかじめ送って下さったので、まずはざっと、直前にはじっくりと読んでみた。地元の方でも、読めばことばは分かるが、切り方でとまどったという。

そのお芝居に現れた佐賀の活き活きとした方言の特徴を抜き出すために、そこに登場した人のことを引用する。その千に一つしか本当のことを言わないようだということから付けられたという通称名を、郷に入れば郷に従えで仕方ない、読みにくいが小さめに速く発音する。

この地の武士道で有名な本に『葉隠』がある。20代後半の県庁の職員は、新人研修でこの大著を読まされたという。私は、古書で購入して今回の予習をする中で知ったが、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という有名な句のほか、実は人前でのアクビの止め方など、実用的な内容も含まれていた。大学の先輩の先生からも聞いていた、心を一つに集中する意の「はまる」を、「部る」と書く例も、確かに何度も出てきた。地名の「~原(ばる)」もたくさん出てきたが、崖を意味する方言「ほき」(第166回)は仮名表記だった。当地の俚言の「すくたれ」(ばか)に「寸口垂」といった当て字も、かつて佐賀藩の史料に見られたそうだ。

せっかくご来場下さった方々が眠くなってはいけないので、参加型を取り入れてみる。

「咾」の読みは?

「おとな」と読めた人が結構いる。さすが地元だ。答えを言うと、思い出したように「あ~」という声も漏れる。これは地域訓であるが、後ろにもう1つ「分」の字を加えた2字ならば、きっともっと読めただろう。これについては後で詳しく述べたい。

ついでに「箞」も読みを聞いてみる。会場の方々から「うつぼ」と声が挙がる。これもさすが地元においでの方々だと感心する。大きな漢和辞典には載っているが、他では使われないという意味で地域文字といえる。

中国においては、ウツボという字義を持たない漢字であり、日本の国訓、さらに使用域に着目し、そこまで考慮すれば、地域訓をもつ字とも言うことができる。そこを所管する厳木町は、唐津市に編入されたが、この小地名は残された。

東京で見られるような資料には、

箞

【 箞 つまり竹冠に卷(巻の康煕字典体・旧字体)】

(竹×巻) いわゆる拡張新字体

【(竹×巻) いわゆる拡張新字体】

竹×巻己は氾-シ

【(竹×巻己は氾-シ)】

竹×巻下は氾-シ中ははねない

【(竹×巻下は氾-シ中ははねない)】

などが見られる。

中世に「うつぼ」という訓読みを得て、近世にこの地の地名を表記するようになったこの字は、字体には一定の揺れを、他の漢字と同じように呈しながら使われ続けた。印刷工程においては、この鉛活字の不足は、時として起こったことであろう。しかし、20世紀後半の情報化社会が進展する中で、新たな不幸の歴史を背負い始めるのである。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。