これまでの地名研究の諸成果によれば、この地名が現れる資料としては、天正一六年(1588)の「久礼分地検帳」が古く、そこでは「ヌタノ川村」と片仮名表記だったそうだ。そのヌタに「」という漢字が当てられるようになる。この字は、『大漢和辞典』では、音がチュツ、「水の流れ出るさま」(『説文解字』)、コツでは「水の静かなこと」「池」(『集韻』)と説明があるもので、「ぬた」は国訓のようだ。それが早い時期に「汢」へと形を変えた。なお、この字には、『伊呂波字類抄』に「ヌル」などとあるが、「塗」「泥」と関連する暗合に近い衝突であろう。抄物書きとしても「淨土」の略合字にあるが、これは衝突だろう。これが、浄土真宗で行われた方法だとすると、いわゆる真宗王国の地では、これに「ぬた」の訓もかぶせることはありえなかったのかもしれない。この地では、神道であろうか、集落内にある「三日月神社」のお札を各家で貼っていた。
「咄嗟」などの「咄」(「はなし」はこれも国訓)も「吐」と書かれることがかつてあった。「出」の崩し字は、右側の点が目立つため、点が外に「出」るのが「出」、出ないのが「書」などという覚え⽅も聞いたことがある(例外もある)。崩し字が「土」と似ることがある。「土」にも「点」が右や右上に加えられ、バランスを整えるいわゆる咎無し点というだけではなく、「士」との差を明確にする機能を古来、託されてきた。
次第に、そのさんずいの点が減って「にすい」で「」や「」のように書かれるようになる。大原望氏の調査によると、前者が正式な字体と役場の税務課・町民課などで認識されることが起こり、地図でも使用された。「土」には点が残り、あたかも点が移動したようにも見えるが、そういうわけではなかろう。「土佐」の「土」にももちろん点が付くことがよくあったわけで、いっそう習慣化を促進したことだろう。
しかし、地区総代と窪川町役場が相談し、これがJISになく不便であること、明治時代には「汢」の字を使っていたこと、漢和辞典でもこれが収められていることによって、2002年1月1日に、地名が「汢の川」に改められたとされる。漢和辞典である『大漢語林』の典拠はJIS漢字第2水準であり、さらにその原典は国土地理協会発行の「国土行政区画総覧」である。その1972年当時の原稿p2151ノ18に、たしかに「高知県高岡郡窪川町仁井田通称汢川(ぬたのかわ)」とあったことを確認し、JISの規格票(1997 p299)に引用した(詳しくは『国字の位相と展開』に記述した)。
農村地帯に、四国横断自動車道という高速道路が敷設される工事の様子が鮮烈に映った。それに伴って、カルバートボックスというもので川を残すための工事をしないと、水が止まってしまうとのことで、すでに施工されたそうだ。東京に戻ってからさらっと調べると、カルバートボックスとは、ボックスカルバートともいい、コンクリートでできた四角い暗渠のことだった。「函渠」ともいうそうで、専門家はその「函」をどう手書きするのか、気に掛かり出す。
汢ノ川まで来る途中に、工事現場の看板に出ていた「ホキノ口」という地名についても尋ねてみる。ホキは崖の意で、先には山の断崖があり、そこに鳥取にあるような地域文字(本・元など ほきもと 姓・小地名 「川」の部分の右の「|」が「礼の右」のように曲がるものもある)がほのかに期待された。しかし、それは小アザで、昔からカタカナだったとのこと。その場所は、「忘れた」そうだ。「ホキ」の意味は、崖のような所を指すかと振ってもみたが、分からないそうだ。
東国のハケや「大歩危」のボケと同じ系統の崩壊地形を表していた語なのだろう。一方、「汢ノ川」は仁井田の中の16軒からなる集落の名の一つで、「地番」だから、それとは違って登記所の図面や土地台帳にも出てこないとのこと。ここでは通称と小アザの違いが明確に存在しているようだ。