「汢ノ川」(ぬたのかわ)の農村を縫って建設中のコンクリートの高速道路は、山林の風景に似つかわしくなく、やや異様な光景だ。時計を持ち歩かなくなって久しい。ケータイを見る時間も惜しい。時間は心の中で、やることによって伸び縮みする。熱っぽいときの体温計と同じで、へたに見てしまうと、やる気を失ったり逆に焦ったりして、リズムが狂ってしまう。
電柱には、カタカナで「ヌタノカワ」や「ヌタノ川」とあるのがまず目に入った。新しいからか、いや、新しい方がJIS漢字のおかげで「汢」が出るか。畑で作業をしている方々は、よそから車で来ていただけで、漢字は知らないという。電柱にあるのでは、というので見たら、やはりそこでもカタカナだった。途中から、やっと「汢ノ川」と書かれたものも目に付きだした(前回参照)。
この先までがヌタノカワで、全部で16軒あるというので、もっと奥へ進む。その巨大な白い構造物をくぐって奥まで行ってみる。少し高くなったところに、集会所があった。
集会所の掲示板に貼られた紙には、「の川」とゴシック体で印刷されている。なるほど、病院で書いてくれた字体と似ている(第164回参照)。こういうものは今、この場でしか見られまい。はたして、地元の人の作だろうか。「汢」と「」、なんとなく字体の似通った両方の字を混同しているのか、使用ソフトで変換されなかったために別字で諦めたことによる故意の代用か。こういう現象は「辻」という字がよく使われる地域であるということ(第161回参照)が背景として考えられる。こういう実例を見てしまうと、帰りの列車の時刻などこの際もうどうでもいいや、ハイヤーを拾えれば特急の駅まで出て、などと何とか頑張れば帰れるだろうと割り切り始める。
その先には、山中に神社があり、「汢の川」と刻まれた新しめのお墓もあった。やはりここまで来て良かった。ケータイの時計を見ると、そろそろ危ない。電車に乗り遅れると、飛行機も危うい。旅程を保証するチケットが紙切れとなる。そうすると翌日の仕事も、などと悪い連想がよぎる。
スーツはこういうときには作業着としてはよくない。暑さと焦りも加わって汗が出てきた。列車に間に合うようにと駅まで早歩きの道すがら、70代と思われる女性が、橋を渡って歩いてきた。買い物をした白いビニールの袋が重くてしんどそうだ。通り過ぎるときに「こんにちは」と挨拶をして下さる。それならば、といきなり尋ねてみる、
「ぬたのかわ」のヌタってどう書きますか?
さんずいに土
その方の京阪式アクセントを真似して、
点も付きますか?
すると「点も」付くという。再度聞くと、やはり「付く」という。二人の人に聞けて良かった。
朝はしっかり食べるようにしている。貧乏性で欲張りで、バイキングなど思い残すことがないように結構今でもしているので、行きの道では、おにぎりの誘惑に負けずにお店を難なく通りすぎた。復路では、仁井田米のおにぎりを3個注文する。その場で握ってくれるのだが、時間がないのでと、お茶を買いに行っている間に、もうできていた。知らない土地でおにぎりを頬張れば、それではあの裸の大将だ。芸術家でもない私もそうする時があるのだが、今は腹ごしらえどころではないので、いよいよ走って駅舎へ。久しぶりの肉体労働。よく本より重いものは持たない、などというセリフを聞くが、図書館でも実は重い本を抱え持って小走りになることがある。調査は体力がものをいう。
電車に乗り込む。滅多に来ない列車に、ぎりぎり間に合った。都内では難しいが、ここでは人の少ない車内で頂く。コンビニのおにぎりにいつの間にか慣れた身には、それと違って温かく柔らかくておいしいことが嬉しい。のりで巻いたおにぎりの中にも、恐らく川海苔と思われるものが入っていて、さすが清流、四万⼗川の流れる地だ。ほかにも車内には食事時の人がいた。
汗かきが走ると汗だくになる。胸ポケットに放り込んだメモも、ボールペンのインクの字は溶けたり滲んだりしていないのでOKだが、紙が汗でグニャグニャだ。シャツは、早く着替えたい、人影の少ない電車いや列車内で着替えようかと頭をよぎるが、ただの非常識な人になりかねない。女性、女子生徒も乗ってきた、やめておこう。汗はすぐ乾く。高知駅にちょうどお遍路さんの着替え室があったので、そこを拝借し、すっかり乾いたシャツを着替える。お遍路さんも電車を利用していた。