窪川行きの各駅停車のディーゼル⾞が入ってきた。終点の一つ手前で降りることになる。WEBで見ると、市町村合併で、四万十町(四万十市はまた別)になったらしい。上を見れば架線もない。そういえば、徳島駅もそうだった。着いたのは一両編成(?)だ。モーターとは異なるディーゼルエンジンの音と響き、匂い。いかにも動力という感じが伝わってくる。車内放送がよく聞き取れないほど大きな音が出続けるが、不快ではない。下り坂になるとそれが止まる。
子供のころに北陸本線までの旅程で味わった懐かしい興趣が甦る。子供のころは車内がタバコで煙く、かつ夏は暑かった。半透明の容器に入っていたお茶も熱かった。椅子も硬かった。
高知駅に着いた窪川行きのその鈍行列車では、皆、右の座席に座る。そこから埋まっていくのは、走り出した後の朝の日射しの差し込み方を知っているためだ。ワンマン列車は、子供のころのバスを思い出させる。車掌が乗っていた光景をぎりぎり覚えている。経費節減だろうか、だんだんといなくなった。ワンマン化は運転士の負担増だったのだろう。
途中、車窓には農村、山林、河川といった田園風景をベースに、ときに駅周辺の繁華街が映る。高知市内とはだいぶ趣が異なってきた。とある駅近くに大きな石碑が建っていた。「津波」の文字が見える。ホテルで見たテレビなどによれば、江戸時代の南海地震による大きな被害や、波の到達点を示すものがいくつも建てられているそうで、その一つだったのであろう。先人たちも非常な苦難に遭い、それを伝えるために文字を残した。東北でも、石碑や神社の名にそれが伝承されていたそうだ。何年も前に宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区を歩いた日には、海から少し離れた地であるにもかかわらず、確か津波注意との看板を、その恐怖を知らずに眺めた記憶がある。雲仙普賢岳の土石流災害に関しても、文書に被災の記録と教訓が記されていたそうだ。過去からの文字には、掛け買いのない情報が込められている。
仁井田駅に到着し、扉を出るのは私一人。ホームが一つ、改札も一つなので、出るところを間違える心配はないが、尋ねられる人もタクシーもない。駅には、帰りのときに、老人が一人いただけだった。
駅前に、小さな郵便局があった。入って見ると局員は年配の男性と、女性の2人だった。管轄下であるはずなのに、お二人とも「汢ノ川」という地名は聞いたこともない、もちろんこの漢字も知らない。さすが、番地を重視する総務省的な世界だ。本当にその地があるのか、行く甲斐もあるのか、少し心配になる。
正午のサイレンが大きく鳴り響く。費やせる時間が限られていることに少し焦りだす。方向音痴気味で、地図も読みにくく感じるたちだ。それを片手に、勘を頼りに進むと、小さな綺麗な病院があった。小学校で習った、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」、また以前、関西の人が地元なのに道行く人にじゃんじゃん尋ねている姿に感激したこともある。臆せず入って聞いてみる。
看護師さん2人が対応してくれた。橋の先にある集落で、漢字は知らない、と言って、一瞬パソコンに近づき、中に入っていった。まだ入りたてに見えるほうの方は、この「地名は、そこでは(字には)書いていない」とおっしゃる。先ほどの人が出てきて、「見たことない字」で「ノ川」と、こんな字だそうです、とメモに書いてくださった。「辻に点ですか?」「そうですね」。医師の先生が教えてくださったのだろう。