地域文字を用いた一つの地名が消滅の危機に瀕している。埼玉県八潮市にある「垳」が、今どきのどこにでもあるような地名に変えられようとしているのだ。一度変われば、この日本で唯一の国字を使用した地名は、もう住所として復活させることは困難であろう。ちょうど、この字が公的にも使われている事実がふと頭をよぎった矢先に、地元近くの方から、上記の連絡をいただいて初めて知ったことだった。もし地名が新しいものになれば、この地のためにJIS漢字第2水準に採用されたこの地域独自の「垳」の字も、用いられる機会が激減するに違いない。
地域独自の漢字がある、というとまず驚かれる。ことばに方言があり、「訛り」や「イントネーション」(実際には多くはアクセント)や表現上の違いがよく話題に上る。一方、文字は、全国一律という通念がある。しかし、周の時代から一貫して、漢字には種々の地域差というものの発生と定着が不可避であった。形態の面からも、造字法の面からも、表語機能の面からも、それは必然であった。
地域文字は各地の表記を彩るものである。話を高知に戻そう。
日本中に分布する文字・表記だが、地域ごとに使用に濃淡があるケースも見つかっている。地域でしか使わない字体や字種とはレベルが異なるが、違う意味でそれぞれよその地の人には目立つ。
「寿し」は、すでに記したとおり(第154回参照)高知では非常によく目に入ってくる一方で、「鮨」「鮓」はほとんど見られないのだが、その偏りについてはあまり意識化されないようだ。
「月決め」は、他の地で優勢な「月極」ではないため、ふだんからそこそこ目立つようで、意識化されることもある(第153回参照)。
「汢ノ川」(ぬたのかわ)は、どうだろう。小さな地区の地名であり、存在は目立たないが、見つかると目立つ。しかし、地元の住民はかえってなかなか意識化しないのかもしれない。
ヌタは各地の地名に残っている。山梨では「垈」であった(第100回参照)。「汢」という文字通り、湿地帯の意で、「ぬたうつ」「のたうち回る」と同源の語であろう。「怒田」は字義が勝るし、「沼田」(ぬた)は訓と整合しない。「垈」は「土に代わるもの」などの会意であるとともに、形声で「(ぬ)た」を「タイ」で示したものか。同形の字は、より古く中国や朝鮮で見つかるが、衝突に過ぎない。ヌタアエなど食べ物では「饅」も江戸時代から当てられていた。
高知市から東京に戻る前に、汢ノ川へ行こうか、迷っていた。記憶を頼りにケータイで、その地について最低限の情報が得られる。便利な世の中だ。ケータイなどあえて持たなかった頃は、思えば「情報弱者」に追いやられていた。『JIS漢字字典』のコラム(池田証壽氏のご執筆分)にあるように、こうした地名だけからJISの第2水準に採用された字がいくつもある。『国土行政区画総覧』という地名資料に載ったためで、確かにそれを調査したときには、「汢」はこの地にしか現れなかった。
いわゆるJIS漢字名所巡りで、同じ志をもった幾人かが訪れたり、調べたりしたことを聞いている。もう行く必要もないかと葛藤もあったが、一人でも多く、いろいろな人が行く方が目が増えて良い。合わせれば経年調査のようにもなるだろう。時間もでき、せっかくここまで来たので、自分でないと見えないもの、気付かないこと、感じられないこと、もしかしたら自分にしか残せないことなどもあるかもと、やはり行こうと決意した。何よりも、その地の風や空気、川の音、人の暮らしまでも含めて、肌で理解することができるのだ。
ホテルのロビーに置かれたパソコンでも、その地について最低限の確認をする。想像したのと駅が一つ違っていたので、やはり見ておいて良かった。それ以上拡大できず、目指す地名も表示されないあいまいなWEBの地図だが、プリントできたのは幸いだった。
JR高知駅の若い女性駅員も、汢ノ川の最寄りとなる仁井田駅については、よく知らないようで、慌てて時刻表を慣れた手つきで開き、ページをくっては、なんとか教えてくれた。明らかに聞き慣れていない場所のようだった。特急がないときは26駅、片道2時間半近く、特急との乗り継ぎもよく分からない。
「歴女」「あしゅらー」や「鉄ちゃん」「鉄子」が注目されてきた。趣味が道楽にという人もなくはなかろうが、彼らに限らず一つのことに熱中する、熱心な人たちには多かれ少なかれ近しさを感じる。この区別が内外ともに難しそうなのだが、熱狂的、マニアックにならず、対象を客体化さえするならば、研究と通じるところがある。私も鉄道模型や鉄道写真に一時期凝って散財し(高価なHOゲージを思い切って捨てたのは良かったのかどうか)、運転士などにも憧れたものだ。根っこは同じかもしれない、と気持ちが分かるように思える。