『日本国語大辞典』をよむ

第136回 早口

筆者:
2025年11月23日

2025年10月10日に放送されたNHKの「チコちゃんに叱られる!」という番組では「早口言葉」が採りあげられ、その解説を担当しました。2代目市川團十郎が享保3(1718)年1月2日に『若緑勢曽我(わかみどりいきおいそが)』の中で「ういろう」の由来や効能を早口言葉で演じたことが「早口言葉」の始まりだろうということはむしろ「定説」のようになっているので、その説明はなめらかにできました。しかし、実際に早口言葉を言う場面があり、それはお世辞にもなめらかにはできませんでした。それでも「番組的には」それでいいということで、テレビを見た同僚からも、間違っているところがよかった、と変なほめられかたをしました。ここは(笑)を書いておきたいところです。

さて、エドモンド・ドウニイ(1856-1937)の『The Little Green Man』を黒岩涙香が「翻訳」した「怪の物」(1896年、扶桑堂)という作品があります。この「怪の物」は、明治28(1895)年7月5日から9月27日まで50回にわたり、涙香が主宰していた『萬(よろず)朝報』に連載され、翌明治29年3月に扶桑堂から単行本として出版されています。「怪の物」は、東雅夫編『ゴシック名訳集成西洋伝奇物語』伝奇ノ匣7(2004年、学習研究社)に収められています。東雅夫は「数多(あまた)ある涙香作品の中でも、ゴシック猟奇趣味の最も横溢(おういつ)した怪作といえよう」と述べています。稿者は、縮刷涙香集第22編(1921年、明文館書店)の第8版(1926年)でこの作品を読みました。『ゴシック名訳集成西洋伝奇物語』も「縮刷涙香集」を底本にしています。

さて、「怪の物」を読んでいて、次のくだりが目にとまりました。漢字字体は適宜「常用漢字表」の字体を使い、その他振仮名なども調整をして掲げます。(編集部注:強調は筆者)

 『初対面の方が紹介も無く、其様な事を云ふは何の用事です、私(わたく)しは直(ただち)に茲(ここ)を立去て宿へ帰らうと思つて居ますが』
 『イヤ先生爾(そ)う急ぐに及びません、未だ日も暮掛(かかつ)た許りです、勿論御推量の通り少し用事が有ればこそ、紹介も無く言葉を掛けたのです』
 彼れは徐々(しづしづ)と言ひ来れど、余は益々早口(はやぐち)
 『其用事とは何事です、長く聞ては居られません』
 彼れは面憎(つらにく)きほど落着きて打笑ひ
 『用事の話は早口(はやぐち)には云へません、先(ま)ア先生、緩々(ゆるゆる)とお聞下さい、私(わたく)しの名前から申上げますが、私(わたく)しは梅河―』と云ひ掛けて更に言足し
 『是は本名と云ふ訳では無く、世間から知(しら)れて居る名前ゆゑ本名も同じ事です、ハイ私(わたく)しは梅河安頓と云ふ者です』

「早口」には2箇所とも「はやぐち」と振仮名が施されています。『日本国語大辞典』の見出し「はやくち」には次のように記されています。使用例を省いて引用します。

はや‐くち【早口】〔名〕(「はやぐち」とも)(1)もののいい方が早いこと。また、そのさま。はやこと。はやことば。くちばや。(2)「はやくちそそり(早口─)」の略。(3)「はやものがたり(早物語)」に同じ。

『日本国語大辞典』は「はやくちそそり」を「同音が重なるなど発音しにくい文句・せりふ・俗謡などを、まちがえずに早くいうこと。また、その文句。早口言葉。はやことば。くりことば。はやくち。はやこと」と説明し、「はやものがたり」を「盲人による語り芸能の一つ。面白い物語や口上などを即興的に早口ですらすらと語るもの。また、その話。早口」と説明しています。

「怪の物」の2つの「早口」のうち最初の「早口」は〈もののいい方が早いこと〉つまり『日本国語大辞典』の語義(1)にあたりそうです。しかし2つ目の「早口」が使われている「用事の話は早口には云へません」は「緩々とお聞下さい」を一方に置くと、〈大事な用事の話は手短かにはいえません〉あるいは〈大事な用事の話は一口にはいえません〉という意味にちかそうに思われます。2つ目の「早口」も、〈速く言う〉という意味を含んでいないとまではいえないでしょう。話すスピードが速ければ、発言全体に要する時間は短くなりますから、それを「手短か」といえなくもないでしょう。しかし、やっぱり、「手短かに話してください」と言われた場合、速いスピードで話すことが求められているのではなく、コンパクトに説明してください、と言われているという理解が一般的ではないでしょうか。そうであれば、「怪の物」では少し異なる語義の「ハヤクチ」が隣接して使われていることになります。あるいは、そのように、少し異なる語義をもった、語義がひろい「ハヤクチ」という語があったとみてもいいでしょう。そうした語義のひろがりは、やはり「どのように使われていたか」を、使われている「文」や「文章」を丁寧に観察しなければつかめないこともありそうですね。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。