「百学連環」を読む

第45回 観察と実践

筆者:
2012年2月17日

さて、西先生が『ウェブスター英語辞典』に依りながら、「学(science)」と「術(art)」の意味や区別を検討する様子をじっくり見てきました。以上を踏まえながら、西先生は少しずつ話を転じてゆきます。続きを読みましょう。

又 theory, practice 學に於ても又術に於ても、觀察、實際共になかるへからす。學{觀|實} 術{觀|實}。

(「百學連環」第7段落第3~4文)

theoryとpracticeという新しい語がお目見えです。文末は、便宜上このように記しましたが、実際には上図のように、「學」の字の下に「觀」と「實」が並ぶように記されています。また、原文では、theoryの左に「觀察上」、practiceの左に「實際上」と訳語が添えられています。訳しておきましょう。

また、「theory(観察)」と「practice(実際)」という区別がある。学についても、術についても、いずれも観察と実際の双方がなければならない。つまり、学{観察|実際} 術{観察|実際}ということである。

現代では、theoryと言えば、すぐ「理論」と言いたくなるかもしれませんが、theoryとは語源からして「見る」ことに関連する語です。古典ギリシア語ではθεωρια(テオーリアー)、ラテン語ではtheoria(テオーリア)。語の形だけ見ても、英語のtheoryが、これらの語に連なるものであることが分かります。

古典ギリシア語の「テオーリアー」は、「見ること」「見られるもの」「考察」「探究」といった訳語が充てられる語です(もう一つ、神にまつわる面白い意味もあるのですが、ここでは省略します)。「理論」という意味は、人が対象から見てとったこと、ということかもしれません。

ちなみにtheoryの横に英語のtheater(theatre)も並べてみるとよいでしょう。theaterもまた古典ギリシア語のθεατρον(テアートロン)に由来しますが、これは「劇場」、つまり「見る場所」という意味でした。θεα(テアー)と書けば、「見ること」「光景」といった意味になります。

ですから、西先生がtheoryを「觀察」というふうに「見る」ことに結びつけて訳しているのは、そのような意味でも妥当だと思います。

他方のpracticeは、現在でも「実際」とか「実践」などと訳しますね。なにかを行うという意味です。

さて、こうした「觀察」と「實際」とが対で持ち出され、この二つのことは、「学」と「術」それぞれになければならないというわけです。文末には漢字一文字を使って、図が示されていますが、こう表現すると四者の関係がぱっとイメージできますね。

theoryとpractice、私たちに馴染みの言葉で言えば「理論」と「実践」は、現在でもしばしば対立的に使われることがあります。例えば、手許の英和辞典でtheoryを引くと二つ目の定義にこう見えます。

(実践に対する)理論; (学問的)原理; [or a ~]理屈,空論(←→practice)

(『ジーニアス英和大辞典』、大修館書店)

 

また、practiceの最初の定義はこうです。

(理論に対して)実行,実施; 実地,実際(←→theory)

(前掲同書)

 

「理論」と「実践」とが互いに「対する」ものであると説明されています。

しかし、どうして「理論(観察)」と「実践」は対立するのでしょうか。私などは、つい「観察すること」もまた「実践すること(行うこと)」ではなかろうか、などと考えてみたくなることがあります。

とはいえ、日常でも「あいつは理論〔理屈〕ばかりで実践が伴わない」と言ったりすることがありますね。こう言った場合は、口先(言葉)だけで、実行していないという意味になります。

この二つの対比は、なにも最近始まったことではありません。例えば、2000年以上前にこんなことを書いている人がいます。

哲学を真理の学と呼ぶこともまた正当である。なぜならば理論学〔テオーレティケー〕の目的は真理であり、実践学〔プラクティケー〕のそれは行為〔エルゴン〕だからである。

この人は、理論と実践は、目的が違うとはっきり区別しています。頭を使って真理を探究し、言葉で理論をつくりあげることもまた行為ではないかと考えると、話がややこしくなってきますが、それはまた後ほど検討するとして、一旦この整理を受け入れておきましょう。

ところでこれは誰の言葉でしょうか。すでにピンと来ているかもしれません。本連載でももはやお馴染みの(?)アリストテレス先生が『形而上学』で述べていることなのでした(訳文は、岩崎勉訳『形而上学』、講談社学術文庫、p.103からお借りしました)。ついでながらアリストテレスは、諸学術を大きく三つに分けて考えています。上の引用文に現れる「理論学」「実践学」に加えて「制作学〔ポイエーティケー〕」の三つです。

それはともかくとして、西先生が『ウェブスター英語辞典』に依りながら区別している「觀察(theory)」と「實際(practice)」という言葉もまた、遡ればアリストテレスの学術観に根があるらしいことが分かります。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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