『日本国語大辞典』をよむ

第60回 青嵐は青い嵐か?

筆者:
2019年7月28日

あおあらし【青嵐】〔名〕(「青嵐(せいらん)」を訓読した語)初夏の青葉を吹き渡る風。《季・夏》*梵燈庵主袖下集〔1384か〕「青嵐、六月に吹嵐を申也。発句によし」*俳諧・其便〔1694〕「青嵐定まる時や苗の色〈嵐雪〉」(略)

せいらん【青嵐】〔名〕青々とした山気。また、新緑の頃、青葉の上を吹きわたる風。薫風。あおあらし。*和漢朗詠集〔1018頃〕下・行旅「夜極浦の波に宿すれば、青嵐吹いて皓月冷(すさま)じ〈慶滋為政〉」*本朝無題詩〔1162~64頃〕二・賦庭前松竹〈惟宗孝言〉「養得数竿垂夜露、栽来百尺帯青嵐」*平家物語〔13C前〕三・有王「白雲跡を埋んで、ゆき来の道も定かならず。青嵐夢を破って、その面影も見えざりけり」*宴曲・宴曲集〔1296頃〕四・羇旅「青嵐梢に音信(おとづれ) 野径に煙靡きて 眼に遮る類は又 白雲遙かに聳たり」*老妓抄〔1938〕〈岡本かの子〉「ふと鳴って通った庭樹の青嵐を振返ってから、柚木のがっしりした腕を把った」*呂温-裴氏海昏集序「雞犬鐘梵、相聞於青嵐白雲中

『大漢和辞典』の「青」の条下に「セイラン(青嵐)」があげられているが、「夏の風。青葉を吹く風。又、青々とした山の気」と説明されている。使用例としては、『日本国語大辞典』があげる唐の呂温(りょおん)(772~811)の「裴氏海昏集序」と、中唐の白居易(772~846)「夏日新栽竹詩」の「未夜青嵐入、先秋白露団」及び晩唐の陳陶(生没年未詳)「竹詩」があげられている。

『日本国語大辞典』が「セイラン(青嵐)」の使用例としてまずあげているのが『和漢朗詠集』下巻「行旅」の例である。「キョクホ(極浦)」は〈遠く遥かな浦、水辺〉で、古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』(1965年、岩波書店)は補注で「また夜に入って、人煙を離れたはるかな浦わに浮き寝の宿りを求めて泊ると、浪の音もさわがしく、木々をゆるがす風の音にいつか空もはれ、月光がくまなく照らしているのもすさまじい」と説明している。これは「夜」の描写で、青葉がありありとみえているわけではないので、「青葉を吹く風」とはみなしにくい。そのために「木々をゆるがす風の音」と説明しているのであろうが、同書は頭注では「新樹の林間を吹く風」と説明しており、いささか一貫しないように思われる。つまり、漢語「セイラン(青嵐)」においては、〈青葉〉という意味合いでの「青」が効いていない場合もありそうだ、ということだ。

漢語を訓読してできた語ということになれば、まずは漢語の語義がどうであって、それをどの程度受けて「訓読した語」が成り立っているか、とみたいところではある。しかしながら、漢語の語義とまったく離れるということはもちろんないとして、漢語の語義をぴったり受けているとばかりはいえないことは予想できる。漢語を書いている漢字を訓読することによって、なにほどかは語義が変わることはむしろ当然のこととみておく必要があるだろう。それが「訓読」ということとみることもできよう。

「セイラン(青嵐)」についていえば、『大漢和辞典』の語釈からもわかるように、「嵐」という漢字が使われているが、「アラシ(嵐)」ではなく「カゼ(風)」とみるべきであろう。木々を渡っていく風が木々をざわざわと鳴らす。その「ざわざわ」を「アラシ」にみたてているのではないだろうか。しかしながら、連歌論書である『梵燈庵主袖下集』は「青嵐、六月に吹嵐を申也」と述べており、ここには「嵐」とある。これも「訓読」だ。

『日本国語大辞典』は「セイラン(青嵐)」の使用例として、『和漢朗詠集』の次に『本朝無題詩』〔1162~64頃〕をあげ、それについで『平家物語』巻三「有王」における使用例をあげている。鬼界ヶ島に流された丹波少将と康頼入道は許され、俊寬一人が残される。その俊寬をたずねて有王が鬼界ヶ島に来る。その描写として、「山のかたのおぼつかなさに、はるかに分入、峯によぢ、谷に下れ共、白雲跡を埋で、ゆき来の道もさだかならず。青嵐夢を破て、その面影もみえざりけり。山にては遂に尋もあはず。海の辺について尋るに、沙頭に印を刻む鷗、澳のしら洲にすだく浜千鳥の外は、跡とふ物もなかりけり」とある。

『平家物語 上』(1959年、岩波書店)は頭注において「青々とした山気が有王の夢を破って現実に俊寬の姿をみせてはくれなかった」と説く。「青嵐」を「青々とした山気」とみている。ところで、「沙頭に印を刻む鷗」は『和漢朗詠集』下巻「水付漁父」に収められている大江朝綱(886~958)の「沙頭刻印鷗遊処」(沙頭に印を刻む鷗の遊ぶ処)をふまえていることが明かである。そのことからすれば、「山のかたのおぼつかなさに」からの表現はやはり『和漢朗詠集』下巻「雲」に収められている「山遠雲埋行客跡 松寒風破旅人夢」(山遠くしては雲行客の跡を埋む、松寒くしては風旅人の夢を破る)をふまえた表現とみるのが自然であろう。しかし、『和漢朗詠集』では「風破旅人夢」であるのに、『平家物語』では「風」ではなく「青嵐」が使われている。『平家物語』や『太平記』などのいわゆる軍記物語に『和漢朗詠集』の表現がとりこまれていることはすでに指摘されており、『平家物語』が文字化されていく頃には、『和漢朗詠集』はよく知られていたといえよう。『平家物語』を文字化した人物(といっておくが)は「青嵐」が「風」という語義で使われることを知っていた。だから「青嵐」を「風」で置き換えた表現がうまれた、と考えるのも一案だろう。ここでは「青嵐」と「風」とを取り違えた、と考えることもできるだろう。

「セイラン(青嵐)」は木々の間をわたる風でなければいけないのか、どうか、という問題設定がいささか窮屈過ぎるのかもしれない。文脈に応じて、「セイラン(青嵐)」は青くもなれば、青くないこともある。また嵐であることもあれば、風であることもある。それが「訓読」だ、と言ったら強弁に過ぎるだろうか。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

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辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。