『日本国語大辞典』をよむ

第59回 緑のそよ風

筆者:
2019年6月23日

『日本国語大辞典』の見出し「みどり【緑・翠】」の語釈は次のように記されている。

【一】〔名〕(1)草木の芽。新芽。(2)色の名。青と黄との間色。七色の一つ。また、光の三原色の一つ。みどりいろ。(イ)草木の葉のような色。特に、新緑の頃の葉のような色。《季・夏》(ロ)海や空などのような色。深い藍色。(ハ)黒くつやのある色。多く毛髪にいう。→緑の髪。(略)

『日本国語大辞典』の語釈を整理すると、【一】(2)のような緑色、【一】(2)(イ)のような黄緑色、【一】(2)(ロ)のような青色、藍色、【一】(2)(ハ)のような黒色、いずれもを、日本語においては「ミドリ」一語でとらえていることがわかる。見出し「あお【青】」には「色の名。五色の一つ。七色の一つ。三原色の一つ。本来は、黒と白との中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をもさした。「青空」「青海」「青葉」などと他の語と複合して用いることが多い」とある。交通信号を「青」と呼ぶか「緑」と呼ぶかというようなこともしばしば論じられる。ここでは主に和語「ミドリ」漢語「緑」について話題にしたい。漢語「緑(リョク)」について考えるために、『日本国語大辞典』において見出しとなっている漢語を幾つか挙げてみよう。

りょくい【緑衣】〔名〕(1)緑色の衣服。また、鸚鵡(おうむ)の羽のたとえ。(2)(みどりは間色でいやしいとされたところから)いやしい者の着るきもの。いやしい衣服。(3)六位の官人の着る緑衫(ろうそう)。

りょくいん【緑陰・緑蔭】〔名〕みどりの木かげ。青葉の茂った木かげ。《季・夏》

りょくすい【緑水】〔名〕緑色の水。青い色をした水。

りょくたん【緑潭】〔名〕緑色のふち。水をたたえて緑色になっているふち。

りょくち【緑池】〔名〕緑色の池。緑色の水をたたえている池。

これらからすれば、樹木の葉も「緑」であるし、池の水も「緑」であることになり、漢語(中国語)においても、「緑」でとらえている色には幅があることがわかる。池や湖の周囲には樹木が生い茂っていることが少なくないだろうから、そうした樹木の緑が池や湖の水に映じて、なおいっそう水が緑色に見えるということはありそうだから、水の色が実際に黄緑色にちかく見えることはあるだろう。そうであったとしても、「リョクタン(緑潭)」や「リョクチ(緑池)」には幾分比喩的なとらえかたが含まれているともいえよう。もともと、青葉の色も、水の色も「緑」でとらえることができるのだから、前者後者が渾然一体としたものが「リョクタン(緑潭)」、「リョクチ(緑池)」とみるのがいいのかもしれない。

「緑のそよ風」は「靴が鳴る」「叱られて」などで知られる童謡作家、清水かつら(1898~1951)が作詞し、戦後間もない頃にNHKラジオで放送された童謡である。どこでどうやって覚えたのかすっかり忘れてしまっているが、筆者も「緑のそよ風 いい日だね ちょうちょもひらひら 豆のはな 七色畑に 妹の つまみ菜摘む手が かわいいな」という歌詞の出だしは記憶している。ちなみにいえば、「つまみ菜摘む手がかわいいな」のところは覚えていなかったので、今回調べてみて、「そういう歌詞だったか」と、これは少し意外な気がした。もっと意外だったのは3番の歌詞が「緑のそよ風 いい日だね ボールがぽんぽん ストライク 打たせりゃ二塁の すべり込み セーフだおでこの 汗をふく」であることだが、それはそれとしよう。

改めていうまでもなく、そよ風に色がついているわけではないので、「緑のそよ風」はさわやかに感じる「そよ風」をそのように表現した、「比喩表現」である。比喩表現は、人間がどういうように、あるいはどういう「方向」に言語でとらえる対象や事象を拡大していくかということを窺うことができる興味深い表現だ。筆者は、言語化された「情報」と言語化しにくい「情報」とがあると考えているが、後者が「イメージ」と呼ばれているのではないかと考えている。比喩表現にはその「イメージ」がかかわるだろう。比喩表現の隣り合わせに、「転義」がありそうだ。『日本国語大辞典』は見出し「てんぎ【転義】」を「語のもとの意味から転じた意味。本義から転じて生じた意義」と説明している。どういう「方向」に転じていくか、ということは人間の「認知」にかかわって、これまた興味深い。「緑」にかかわる転義をあげてみよう。

りょくぎ【緑蟻】〔名〕緑色の酒の中の滓(かす)。転じて、緑色の酒、また、美酒。

りょくじ【緑耳】中国、周の穆王の用いた名馬の名。転じて、名馬をいう。

りょくしゅ【緑珠】中国、晉の石崇の愛妾の名。転じて、美女をいう。

白居易の「問劉十九(劉十九に問う)」という題名の五言絶句の第一句に「緑蟻新醅酒(緑蟻新醅の酒)」とあり、ここに「緑蟻」がみられる。

オンライン版の検索機能を使って、『日本国語大辞典』の中に「転じて」という表現がどれぐらい使われているかを調べてみると、6277件あることがわかる。そのほとんどが語釈中での使用であるはずだから、かなりいろいろな「転じて」があることがわかる。

あうた時(とき)に笠(かさ)を脱(ぬ)げ 知人に出会ったらすぐ笠をとってあいさつせよ。転じて、あいさつの機会を逃がすな、よい機会に出会ったら逃がさず利用せよということ。門に入らば笠を脱げ。

あえしお【韲塩】〔名〕食物に程よく加える、塩、酒、しょうゆ、酢、たで、しょうが、わさび、こしょう、からし、さんしょうなどの合わせ物。主に野菜料理に用いられるところから転じて、そまつな食物。

あおたがい【青田買】〔名〕水稲の成熟期に、その田の収穫量を見越して先買いすること。転じて、学校の卒業見込みがまだ立たないうちに、会社、事業所などが、卒業後の採用を決めること。青田刈り。↔青田売り。

いろいろな「転じて」がある。「転じて」については改めて論じてみたいと思うが、「あえしお」の語釈をみていて、こういうドレッシングを野菜にかけたらおいしいのではないかと思った。こういう「転じて」もある。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。