昭和41(1966)年に文藝春秋社から出版されている、水上勉『城』を読んでいると、「鉄砲狭間、石落しなど、軍事的要所を堅牢にする」(88頁)というくだりがありました。『日本国語大辞典』第二版の見出し「いしおとし」には次のように記されていて、このくだりが使用例として掲げられています。そしてその他には使用例が示されていません。(編集部注:水上勉『城』は1965年に『文藝春秋』に掲載後、1966年に単行本化されています)
いし‐おとし【石落】〔名〕城門の楼上、やぐら、天守閣のすみなどに床を前方に突き出すようにつくって、そこから下方を監視し、また、石を落とすなどして、敵を近づけないようにする装置。*城〔1965〕〈水上勉〉一〇「鉄砲狭間、石落しなど、軍事的要所を堅牢にする」
「現存天守」ということばがあります。このことばは『日本国語大辞典』では見出しになっていませんが、江戸時代以前に建てられて、解体も焼失もされずに現存している天守のことで、現在は12棟しかなく、そのうちの5棟を備える、姫路城・松本城・犬山城・彦根城・松江城が国宝となっています。
こうした城を見学に行くと、ここから石を落としたというような説明が記されている場所があります。それが「イシオトシ」ということになりますが、現在国宝になっている城が、「現役」として使われていた江戸時代以前の文献における使用例があげられていません。
『日本国語大辞典』の編集過程で、江戸時代以前の文献での使用例がキャッチされているのであれば、おそらく水上勉の作品において使われた例ではなく、それを掲げるでしょう。そうであれば、そうした使用例はキャッチされていない可能性がひくくはないことになります。石を落とす「装置」があるのだから、それに何らかの呼称があるとみることは自然でしょう。しかし、その「呼称」が記録されていないということなのでしょうか。あるいは、そうした呼称を記しとどめているであろう築城関連の文献が、『日本国語大辞典』の編集過程ではあまり使われていなかったということなのでしょうか。そもそも、水上勉(1919-2004)はどこで「石落し」という語にふれたのでしょうか。「石落し」は水上勉の作った語なのか、など、幾つかの疑問が思い浮かびます。
国宝の城を見学に行って、「これが石落しです」という説明を見ても、すぐには疑問が思い浮かばないでしょうが、辞書をじっくりと読んでいると、そういうことにも気づき、疑問をもちます。「辞書をよむ」という行為は、ことばに関してふだん気づかないことに気づかせてくれる行為であることはいうまでもありませんが、ことばを超えて、ふだん気づかないことに気づかせてくれる行為でもあります。むしろそういうことが少なくないかもしれません。
上記のことを問いのかたちで整理するならば「室町時代・江戸時代に、城から石を落とす装置のことを何と呼んでいたか」ということになります。「イシオトシ」はそうした装置の呼称としてごく自然なものだから、案外、室町時代・江戸時代にも「イシオトシ」と呼んでいたのかもしれません。しかしたとえそうであっても、見出し「いしおとし」の使用例に水上勉のみがあげられているということについて、「どういうことか」といったんは立ち止まり、考えるということはしてよいでしょうし、そういう「眼」は持っていたいと思います。
さて、水上勉の『城』で使われている「鉄砲狭間」はどうでしょうか。「桶狭間の戦い」は「オケハザマ」なのだから「鉄砲狭間」は「テッポウハザマ」を文字化したものだと思って、『日本国語大辞典』を調べてみると「てっぽうはざま」という見出しはありません。『日本国語大辞典』には「てっぽうざま」という見出しがあり、そこには次のように記されています。
てっぽう‐ざま[テッパウ‥] 【鉄砲狭間】〔名〕鉄砲をうつための狭間。銃眼。*甲陽軍鑑〔17C初〕品四二「鉄炮(テッハウ)さま、土一俵をもってす」*城〔1965〕〈水上勉〉一〇「鉄砲狭間、石落しなど、軍事的要所を堅牢にすることを忠勝は忘れていない」
こちらには17世紀初頭に成立したと考えられている『甲陽軍艦』の例が掲げられているので、江戸時代には「テッポウザマ」という語があったことが確認できます。水上勉『城』の例も掲げられています。『日本国語大辞典』は見出し「さま」の語義を3つに分けて記していますが、その2つめには次のようにあります。
(2)城壁や櫓(やぐら)などの内側から外をうかがい、矢、鉄砲、大筒を放つための小窓。船では、軍船の矢倉の楯板にあける。矢狭間、鉄砲狭間、大筒狭間がある。*名語記〔1275〕六「城墎のかいたてに、あなをあけたるをさまとなづく。如何。さは、せばの反。狭也。まは間也。さて、せはまをさまといへり。まどの事歟」*源平盛衰記〔14C前〕三六・熊谷向大手事「櫓を二重にかいて、狭間(サマ)を開けたり」*伊京集〔室町〕「狭間 サマ 又散間 壁穴」*読本・椿説弓張月〔1807~11〕残・六五回「城の兵(つわもの)城楼(やぐら)の狭間(サマ)より見るに、こなたより遣したる使者珠鱗は、馬に乗りて月下に立り」
13世紀に成ったと考えられている『名語記』にすでに「サマ」が採りあげられていることがわかりますね。
ねんのために「ハザマ」を調べてみると、『日本国語大辞典』は「ハザマ」の語義を6つに分けて記しており、その4つ目には「弓、鉄砲などをうつために、城壁などにあけられた穴。銃眼。さま」とあって、1867年に出版されているヘボンの『和英語林集成』初版の「シロ ノ hazama (ハザマ)」という例が掲げられています。これだけだとわかりにくいのですが、これは見出し「HAZAMA」(=ハザマ)の中の日本語の例文のようなもので、「embrasures in a castle」(=城の銃眼)という英語で説明されています。つまり、『和英語林集成』の編纂者の認識では、日本語「ハザマ」は〈城の銃眼〉という語義をもっていたということになります。
いろいろと調べてみると、かえって「一本道」にはならないこともあります。「イシオトシ」という語が江戸時代以前に使われていたかどうかを『日本国語大辞典』によって確認することはできません。また〈城壁に設ける小窓〉を意味する「サマ」という語は13世紀から使われていました。鉄砲を撃つための「テッポウザマ」という語も、17世紀初頭には確実に使われていました。その一方で、〈銃眼〉を意味する「ハザマ」も使われることがありました。この「見通し」に基づいて、いろいろな非辞書体資料を読み進めていくと、「見通し」が微調整され、いつかしっかりした「レポート」がしあがると思いたいですね。一つの語の「歩んで来た道」をトレースすることは大変ですが、楽しくもあります。




