帝都を追われ、西へ、西へと逃げて行く平家一族。今は官爵も削られ、逆賊の身に落ちている。
原因の少なくとも一端は、讃岐の中将らが平家を裏切ったことにある。
その中将自身は官爵を削られずに京にとどまり、さらに「一身の安全を保つ所存から」あさましい振る舞いに出ているという。これは井伏鱒二『さざなみ軍記』(1930-1938)の一節である。
讃岐の中将は身の安全をはかるために、何をしているのか?
逃亡中の平家の若者が噂を書き記すところによれば、讃岐の中将は「世を韜晦(とうかい)すると見せ毎日のように白い鷹(たか)を手に据え嵯峨(さが)や大原の山野へ狩に行」っているのである。
「フォッフォッフォ、このしがない老いぼれめには、人の世など、とんとわかりませぬ。やあ、あの雲の形の面白さよ。今日はあのあたりで猟が立ちましょうかな」
てな感じて『老人』キャラを発動させて隠遁・脱俗・漂泊のイメージを強烈に繰り出し、
「こいつ、もう完全に引退しちゃってるよ」
「いまさらこんなの斬っても仕方ないかも」
と処刑を免れる、なんていう展開を狙っているんだあの中将は。そんなのモロバレだぞ、という憤怒を、「世を韜晦すると見せ」の「と見せ」の部分に感じるのは私だけだろうか。
しかし中将の身に立ってみれば、勘弁してもらうためならこの際『老人』キャラの発動でも何でもやるのだ、モロバレだろうが何だろうが知ったことか、ということになるだろう。これもよくわかる。
話はまったく変わるのだが、『豪快な人』とは、本人はあくまでふつうにしているその立ち居振る舞いが外から見て豪快な人のことである。同様に『親切な人』とは、ふつうにしているその行動が親切な人のことである。「これをやったら皆に『豪快な人』と思われるだろうか」「これをやって『親切な人』と思われよう」といった意図はもし露見すれば、「あの人は『豪快な人』」「あの人は『親切な人』」のような人物評を木っ端みじんにする。人物評は意図とは合わない。キャラクタは意図的にコントロールできないことになっている。遊びの文脈を別とすれば、キャラクタは意図的にコントロールしてはいけないということ、すべて前に書いたとおりである(第2回)。
そのついでに私は「あのレストランのリモンチェッロはうまい」のような作品評に触れた。厨房からチーフが喜んで飛んできて「そうでしょう。皆さんに「うまい」と言ってもらおうと、このリモンチェッロは一所懸命作ったんですよ」と意図を吐露しても、この作品評は傷つかないと私は述べた。そのとおりである。
しかしですのう。
「人物評は「あの山は見事だ」のような自然物評と近く、作品評とは異質」とまで言い切ったのは、この老いぼれめの手落ちでしたわい。作品の中にも、意図的でない自然なものが期待されることはあるのですからのう。
そもそも、自然物と完全にかけ離れたものが、この世にどれだけありましょうか。人の手になる作品とはいえ、そこに作り手にもコントロールできない自然なものをワシらが感じること、感じようとすることも、十分あるのですわ。フォッフォッフォ、やあ、あの雲の面白いことよ。