行動の痕跡からキャラクタが窺える例として、文字や文章、美術品を取り上げてきたが(第39回・第40回)、キャラクタの「ありか」はそれだけではない。私たちが何気なく使っている日用雑貨や消耗品にも、キャラクタが宿ることは珍しくない。
歯形のついた鉛筆。一点の曇りもない眼鏡。抜け殻のように脱ぎ捨てられた寝間着。「履歴」をクリックすると怪しいサイトがいっぱい出てくるブラウザソフト。これらは持ち主の行動を語り、結果として持ち主の「人となり」つまりキャラクタを雄弁に語る。(そういえば何かの拍子に学生に電子辞書を貸したら、途端に履歴を調べられたことがあった。ドキドキしたなあ。)
専門家の鑑定や名探偵の推理にたよらなくとも、私たちはこのような人物プロファイリングを日頃よくやっている。「これこれこういう奴って、たいていこんな感じなんだよなあ」「そうそう、で、こうなんでしょ」「わかるわかる」という具合である。
ベースボールマガジン社から出ていた雑誌『月刊プロレス』には読者の投書欄「読者のリング」があり、そこにはいつも、プロレスへの愛と情熱に満ちた投書がひしめいていた。中でも「アンケート募集」はすごかった。これは読者が、たとえば「アンケートにご協力ください。①好きなレスラー、②好きな団体、③嫌いな団体、④好きなレフェリー」のような投書を通じて、他の読者にアンケートを募るものである。
そんなアンケートに誰が回答するものか、と思うのは間違いで、「327通の回答ありがとうございました。その内訳は……」というような集計結果もけっこう普通に投書されていた。以上は私が子供の時分に実際に目のあたりにしたことでもあるが、ここでは椎名誠(1979)『三二七通五分間の孤独な“熱中時代”』の描写をなぞる形で書いていることをお断りしておく。
官製ハガキを用意して宛先とアンケート項目を書き写し、各項目に自分なりの回答を記入するという、5分ほどの手間を惜しまず、いやそれどころか熱中して、アンケートを成立させる人物は、単なる「プロレス好き」では片付けられまい。一体どのような人たちなのか? 椎名氏によれば、たとえばその一人は、次のような人物である。
台東区のほうの運河沿いにある、従業員17人、資本金700万円ぐらいの運送会社に勤める勤続27年の経理課長。部下は2人だけ。基本的に無口。自分のことを「あたし」と言う。家ではキリンのお正月ラベルビールの残ったやつを一本飲んで、夕刊を読み、NHKの『ニュースセンター9時』を観る。今年23才になり来年結婚予定の娘に「お父ちゃんそこのおしょうゆとって」などと言われて醤油をとってやりながら空咳が出てしまう。ちなみに好きなレスラーはラッシャー木村。といっても、新日本プロレスでの「こんばんは」事件でキャラ立ちのきっかけをつかみ、全日本プロレスで大ブレイクした後年のラッシャー木村ではない。ここでのラッシャー木村とは、地味でマイナーな国際プロレス時代のラッシャー木村であり、それをまたこの人は見事な楷書で「ラッシャー木村」とハガキに書いてくる。そういう人なのである。
ここでは、「プロレス雑誌の読者主催アンケートに回答する」という行動を手がかりに、ほどよく統制された肉付け作業によって、ニッポンの正しい『お父さん』(おとなしい系)の像が見事に結ばれている。見事に、と言っても、これが執筆されたのは一昔前なので若い世代の読者はいまひとつピンとこないかもしれないが、こうしたキャラクタの盛衰、消長は致し方ない。キャラは世につれ、世はキャラにつれ、である。
いやいや日用品どころではない。「『田舎者』はこれだから困る」「天敵は『B型』です」「いいえわたしは『サソリ座の女』」等々、キャラクタのありかは行動や行動の痕跡にとどまらない。キャラクタは万物に宿る。
と書いてきて気付いたが、ここは辞書を作っている三省堂という会社のサイトであり、「日本語社会 のぞきキャラくり」という、ことばから見た社会の断層を述べていくはずのコラムであったのだ。万物の話は措いて、ここらで少し、ことばの問題に戻ってみよう。