人名用漢字の新字旧字

第1回「桜」と「櫻」

筆者:
2007年12月20日

「櫻」が人名用漢字だというのを、ご存じでしょうか? 新字の「桜」ではなく、旧字の「櫻」の方です。新字の「桜」は常用漢字なので、子供の名づけに使えるのは当然なんですが、実は、旧字の「櫻」も子供の名づけに使えるのです。つまり、「桜」も「櫻」も出生届に書いてOK。でも、どうして、新字と旧字の両方が、子供の名づけに使えるのでしょう? その原因は、太平洋戦争直後の当用漢字表の時代へと遡ります。

子供の名づけに使える漢字が制限されたのは、昭和23年1月1日の戸籍法改正に端を発します。「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。常用平易な文字の範囲は、命令でこれを定める」というのが、改正された新しい戸籍法の条文でした。これ以前は、子供の名づけに使う漢字は自由だったのですが、この条文によって、初めて、子供の名づけに使う文字が制限されることになったのです。戸籍法のいう「常用平易な文字の範囲」は、同じ昭和23年1月1日に施行された戸籍法施行規則に定められていました。その範囲は、片かな又は平がな、そして、当用漢字表の漢字、でした。

この時点での当用漢字表1850字は、昭和21年11月16日に内閣告示されたものでしたが、私たちが知っている当用漢字やその後の常用漢字とは、かなり異なるものでした。字体の整理が進んでおらず、旧字がまだ多く残っていたのです。「櫻」も旧字のままで、「桜」になっていませんでした。したがって、昭和23年1月時点の戸籍法施行規則では、「櫻」は子供の名づけに使ってよい漢字だったのですが、「桜」は使ってはいけない漢字だったのです。この時点の当用漢字表には、「櫻」はあっても「桜」はなかったのですから。

国語審議会は、当用漢字表の字体の整理を進め、昭和23年6月1日に当用漢字字体表を答申します。昭和24年4月28日に、この当用漢字字体表が内閣告示された結果、全国の戸籍窓口は大混乱をきたすことになりました。当用漢字字体表では、漢字が全て新字になってしまったので、子供の名づけには新字の「桜」を使うべきだということになったのです。旧字の「櫻」は使えません。でも、当用漢字表が廃止されたわけではないので、それまでの当用漢字表の方を基準にすれば、旧字の「櫻」は使えても、新字の「桜」は使えません。どっちなんだ、ということになったわけです。

この問題に対する法務府民事局の回答(昭和24年6月29日)は、極めて明快なものでした。当用漢字表の漢字も、当用漢字字体表の漢字も、どちらも使ってよろしい。これによって、当用漢字表の「櫻」も、当用漢字字体表の「桜」も、どちらも子供の名づけに使えることになりました。めでたし、めでたし。その後、常用漢字表の時代になって、「桜」は常用漢字になりましたが、一方、旧字の「櫻」はそれまで子の名に使えてきた経緯を踏まえて、人名用漢字となりました。この結果、現在に至っても、新字の「桜」と旧字の「櫻」の両方が、子供の名づけに使えるのです。

このコラムでは、人名用漢字の新字旧字を軸にして、戦後の漢字政策の変遷に迫っていきたいと思います。今後もご期待ください。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

//srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。