登場人物とは,登場する物語があってこそのものなのか?(前回)――などと言うと,おまえは何を寝ぼけているのだ,答はもうとっくに出ているではないかと言われてしまうかもしれない。
なにしろ,多くの読者は既に90年代中頃の段階で物語よりも登場人物に自分を寄り添わせるようになってきたとして,伊藤剛氏が「物語からキャラクターへ」と述べられたのがもう10年以上前のことである(伊藤剛2003「Pity, Sympathy, and People discussing Me」東浩紀(編)『網状言論F改:ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』83-100,青土社,91)。
また,モダンの時代に信じられていた「大きな物語」(たとえば合理主義的な人間観)がポストモダンになって崩壊し始め,世界を統一的に捉える見方が失われた結果,世界は巨大なデータベースと化し,「世界のどの部分を読み込むかということによって,ひとはいくらでも小さな世界像を読み込むことができる。[中略]その変化は具体的には,物語の優位からキャラクターの優位へ,作家性の神話から萌え要素のデータベースへ,という一九九〇年代の市場の変化に現れています」と東浩紀氏が述べられたのも同時期である。東氏はさらに,この時代を象徴するデ・ジ・キャラット(通称「でじこ」)という登場人物について,次のように述べておられる。
(1) しかもここで興味深いのは,このキャラクター(デ・ジ・キャラット)の背景にいかなる物語もないことです。このキャラクターは,実は,特定の作品の登場人物なのではなく,「ゲーマーズ」というゲーム・アニメ系ショップのイメージ・キャラクターです。それが,ある時期よりCMやグッズを中心にブレイクして,いまではアニメやゲームまで作られる人気キャラクターに育ってしまった。九〇年代後半のオタク系文化においては,虚構や物語の重要性が墜落し,かわりにデザインの要素の戯ればかりが優勢になってきた,というのは,実作者でも若いオタクでも口を揃えて言うことです。その変化を象徴するものとして,でじこ以上に適切な存在はありません。 [東浩紀2003「動物化するオタク系文化」東浩紀(編)『網状言論F改:ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』19-38,青土社,31.]
こういう話を聞けば,私にも思い当たることがないわけではない。それは「世界観」ということばにいつの間にか,「断片的」な意味が出てきたということである。(このことに気付かせて下さったのはたしか阪井和男先生である。お名前を記して謝意を表したい。)
「世界観」と言えば,体験によって変わるもの,理屈っぽい友人と酒など飲んで戦わせるもの,つまりこの世界という大きな全体をどう見るかという意味だったはずである。人生をどう見るかが「人生観」であり,結婚をどう見るかが「結婚観」であり,女性をどう見るかが「女性観」であるように,これこれをどう見るかというのが「――観」で,そこに「世界」が入り込んでいるのが「世界観」,だから世界をどう見るかという意味になる。当たり前ではないか。
ところが,「世界観」には別の意味も現れだしている。たとえば次のような具合である。
(2) 最新アルバム『ピカピカふぁんたじん』のリリースにともない,公開されたばかりのリード曲“きらきらキラー”のMVも話題を呼ぶ中,メジャーデビュー以降の彼女の全MVを手がけ,昨年は『MVA』(SPACE SHOWER MUSIC VIDEO AWARDS)でもベストディレクターを受賞した田向潤は,紛れもなくきゃりーぱみゅぱみゅの世界観を作ってきた立役者の一人と言えるだろう。 [//www.cinra.net/interview/201407-tamukaijun,最終確認:2015年2月5日]
ここでは,きゃりーぱみゅぱみゅという歌手のビデオを作ってきた作り手・田向潤氏が,「きゃりーぱみゅぱみゅの世界観を作ってきた」とされている。
この「世界観」は,世界の富の半分が1%の富裕層に保有されているという事実を説明してくれないし,宗教対立や食糧問題,エネルギー問題にも無頓着である。ただ「こんなのかわいいよね。ウフッ」てな感じのものを手を変え品を変えて出し続けると「作った」ことになるのがこの「世界観」である。世界という大きな全体はもはや問題にはされず,世界の中で好きな断片だけを継ぎ合わせていくことで作り出される「世界観」,ここでは大きな全体としての世界が「データベース的」つまり素材集的な扱われ方をしているように見える。