この連載では本編も補遺も基本的に,現実世界に生きる人間の問題として「キャラ(クタ)」を取り上げている。たとえば「やだ,キャラかぶってるじゃん」(本編第8回)とか,「このグループでは私はいつのまにか姉御キャラになってしまう」(補遺第9回)とか,「しかもよ(上昇)」が『女』キャラの発話だとか,「しかもだよ」が『男』キャラの発話だとか(本編第67回),そういう「キャラ(クタ)」の話をしている。
だが,「キャラ(クタ)」にはフィクションに登場する人物,つまり「登場人物」(dramatis personae)という別の面もある。その関係でも,近年「キャラ(クタ)」論が盛んになっているようだ。
作家・新城カズマ氏は,「主に最近の日本国内もしくは先進諸国において商業的に流通する(し得る),エンターテインメント性の強いドラマチックなフィクション」を「物語」(ストーリー(ルビ))と呼び,この「物語」について「物語とはキャラクターである……少なくとも,キャラクターという観点から物語の構造と本質をよりよく見通し,その作成に役立てることは十分に可能である」と述べている(『物語工学論 入門篇 キャラクターをつくる』角川学芸出版,2009,p. 6)。
たしかに,人気を呼ぶフィクションを量産する秘訣は,何よりも登場人物の設定にあるのかもしれない。そしてそれは,登場人物と展開とをうまく融合させることなのかもしれない。新城氏が挙げる登場人物の7類型(『さまよえる跛行者』『塔の中の姫君』『二つの顔をもつ男』『武装戦闘美女』『時空を超える恋人たち』『あぶない賢者』『造物主を滅ぼすもの』)はいずれも単なる人物の類型ではなく,展開(たとえば『さまよえる跛行者』は常人が行かないところに行き着き,『塔の中の姫君』を救い出す)と結びついている点はこのことを示唆しているように思える。
ところで新城氏は同書の最終部で「物語とは(ほぼ)キャラクターであり,キャラクターとは(ほぼ)物語である」と述べている(p. 168)。ここで「(ほぼ)」が挿入されているのは,氏の主張がより厳密に述べ直されたものと理解できる。だが,私にはそれとは別に,後半のことばが少々ひっかかる。
登場人物とは(ほぼ)物語なのだろうか? 氏のテーマである「物語」からは外れてしまうことになるが,この問題を考えてみたい。つまり,登場人物は,なにかに登場してナンボのものなのか,登場するフィクションなしには成立しないのか,という問題である。