ベネディクトは証言を拒否しました。イエスともノーとも答えず、証言そのものを拒否したのです。判事のラコンブ(Emile Henry Lacombe)は、ベネディクトの証言拒否を容認しましたが、それは同時に、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社が、裁判上かなり不利になってしまうことを意味していました。
裁判が続く間にも、ワーグナーとハーマンはビジブル・タイプライターの改良を進め、1900年6月8日、「Underwood Standard Typewriter No.5」を発売しました。「Underwood Standard Typewriter No.5」は、45キー(うち3つがシフト、シフトロック、およびタブ)のフロントストライク式タイプライターで、「Underwood Typewriter No.2」を徹底的に改良したものでした。半円状に並べたアームがプラテンの前面を打つ、という基本デザインは踏襲しつつも、内部の部品数を減らすことで、故障を少なくし耐久性を高めると同時に、価格を下げることにも成功したモデルだったのです。「Underwood Standard Typewriter No.5」は、発売と同時に注文が殺到しました。ワーグナー・タイプライター社は、傘下のアンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社の工場を、ハドソン川対岸のニュージャージー州ベイヨンに開設していましたが、ベイヨンの工場では生産が間に合わないほどの注文が殺到したのです。
これに対し、アンダーウッドが取った策は、ワーグナーにとって、かなり強烈なものでした。アンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社の工場を、コネティカット州ハートフォードに移転したのです。それも、アメリカン・ライティング・マシン社の目と鼻の先、同じキャピトル通りの300ヤード西に立つ商業会議所ビル(Board of Trade Building)に、アンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社のオフィスを構えたのです。アンダーウッドは、ベイヨンやマンハッタンの技術者をハートフォードの工場に送り込むと同時に、アメリカン・ライティング・マシン社の技術者をも引き抜こうとしていました。アンダーウッドは、さらに、商業会議所ビルの回りの土地も買いあさり始めました。アンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社の工場を、キャピトル通り沿いに建設するためでした。アンダーウッドは、ハートフォードのタイプライター産業を、根こそぎ、アンダーウッド・タイプライター・マニュファクチャリング社の配下に、取り込んでしまおうとしていたのです。
(フランツ・クサファー・ワーグナー(12)に続く)