漢字の現在

第249回 浪華の漢字

筆者:
2012年12月25日

元禄時代の面白い漢字資料を目睹し、調査を始めたのは学生時代だった。そこに登場する生きた字の用いられた証拠を訪ねて、西の地を巡ったことがあった。竹細工の看板があった有馬や、各種の商売の看板があった大坂、そして京のみやこの人々が書いた生活の文字は、今でも痕跡が残っているかもしれない。300年前に記述された漢字の姿を確認すべく調査に出て、大阪で寺社を回る中で、住職さんから第二次世界大戦の大阪大空襲による爆撃で古い物はすべて焼けてしまったとうかがった。残っているのはたった1枚だけと奥で掛け軸のような古い図面を見せてくださった。近畿地方でも、一つしかない貴重な近世の資料が一度に焼失していたということに衝撃を受けた。京都と違って、大阪は取り返しの付かない空襲の災禍で、貴重な文化財を多数失ってしまっていたのだ。

大阪では、店に「伊勢海老」とあり、やはり「蛯」は見かけない。「かやくうどん」「かやくめし」「けいらん」とメニューにある。東京人の中には、火薬かと思ってしまう者がいる。カップ麺の「かやく」が子供のころに分からなかった。「鶏卵」の字音語の読み方も、専門家や改まった場面でない限りあまり使わず、ダンボールかパックで目にするくらいだろう。どこの店に入ってもおいしい、さすがは天下の台所だ。くいだおれの人形が太鼓を叩いていた道頓堀はもちろん、場末の食堂でも、喫茶店のような店舗でも、それを痛感した。

おでんであっても、好物の竹輪麩がなく、逆に牛スジが入っている。つゆの色はこれも薄めだ。それが「関東(かんと)炊き(煮とも書かれる)」というもので、「炊く」はご飯だけでなく、ここではおかずにも使われ、守備範囲が広い(この関東は中国の「広東」に由来するなどの説もある)。この食い倒れの町では、味が落ちると、客が店主に「体悪いんとちゃうか」などと声を掛けてあげることもあるそうだ。

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がらがらと引き戸を開けると、テレビではプロ野球の阪神戦の中継の中、地元のおじさんたちが応援しながら呑んで食べている。とても居心地がいいというわけではないが、熱気の中、一緒に食べる。「寅」は東京の下町を思い出させる字だが、「虎」は全国紙のスポーツ面やスポーツ紙ではおのずと阪神のことを指している。「猛虎」「猛虎打線」のように熟語としても現れる。2010年に常用漢字の仲間入りをしたが、ここではすでにファンでなくとも子供のころからよく読み書きできたのではなかろうか。

「吉」を使った表札が目に付く。とりわけ「吉田」姓が多い。芦田が悪しに通じるとしてヨシダとし、漢字も好字に変えたものがあったとも聞く(栄えている梅田という地の名ももとは埋田からという)。「吉」の字は、「土よし」の字体になっているものもまた目立つ。パソコンでは表現しにくい随一の字だが、元は農家やったさかい、士(さむらい)やったから、と渋めの嗄れた高い声が聞こえてきそうだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。