漢字の現在

第250回 大阪の多国籍な文字

筆者:
2012年12月28日

大阪周辺ではまた、「辻」姓はとにかく多い。1点しんにょうでなければ嫌だ、という人もいる。「辻田 辻野 中辻 大辻 辻本」、そして普通名詞としてもこちらでは時々看板に登場する。関東では、「つじ」の十字路などの語義を知らない学生も少なくなく、「述」などの字と書き間違えてしまうことも間々ある。名字では「阪本」が目に入っても、大阪に来たなぁ、という感じがする。「坂」がこざとへんになっているのは、府名に選ばれたことによるそうだ。ほかには、「浜」やその旧字体「濱」も姓や店名によく見かけた。横浜でもこの旧字体はよく目にするのだが、たいてい「横濱」と前に「横」の字(これはあまり旧字体になっていない)が付いて使われている。

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「堺」を境の代わりに普通名詞として書く関西出身の学生がいた。もともと、ここは摂津と河内と和泉(いずみ 和は2字化のために付加されたもの)とが接していた境だったことによる地名だとされる。堺屋太一という名も、この地から谷町へ移った先祖の屋号からのペンネームだそうだ。こういう生活上よく目にする文字に干渉を受けるのは当然のことである。「昨日」を「咋日」と書き誤った石川の羽咋の隣の地出身の女子学生もいたくらいで、彼も影響を受けたのだろう。逆にしばしば接触する中で、かえって意識を高めて書き間違えなくなるという人もいることだろう。堺市の「賑町(にぎわいちょう)」はなにか大阪らしく感じられる。「百舌鳥」は、3字で「もず」、歩くと店名だけではなく、地名となって生活に溶け込んでいることがうかがえた。

近鉄の鶴橋駅は、ホームに降り立ったときからすでに焼き肉の良い香りに引き寄せられた。噂に違わぬ構内の光景で、焼き肉の煙にも誘われて、安くおいしくたくさんいただいた。

看板に「回転すし」とある。こちらではふだんも連濁しないのだろうか。玉造まで歩いてみる。「高級クリーニング 色々」「焼き肉安い」、分かりやすい。商売に励む人たちの心意気がストレートに伝わってくる。看板の「毛染め」はヘアカラーのことで、ここだけではなかろうが、直球勝負でどことなく合っている。「玉突」とはビリヤードだ。関西は、婉曲と直截の幅が広い。東京では子供のころ「撞球」の2字を見たものだ。韓国では「※」がそのマークとしてあちこちで見かける。

店名に「(火+土)(火+土)君堂」と簡体字が書かれている。他でも見かけた字だが、看板の色や書体などの雰囲気からも中国が地理的にも文化的にも近いことを感じさせる。大阪の多言語は、生活の必要から生じたものに見える。近年の都内の韓流ブームに沸く大久保や、韓国からの観光客で賑わう対馬などとは異なる目的で、ハングルが多用されている。「(サ参旧)(サ参旧)鶏湯」「舎廊房」のように、本国では失われつつある漢字表記も根強い。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。