子供の頃にむさぼり読んだ赤塚不二夫のマンガでは、イヤミが「ミーは金持ちざんす」、ニャロメが「オレと結婚しろニャロメ!!」と、個性あふれるさまざまなキャラクタがそのキャラ独自のしゃべり方をしていた。
やがて私たちは大人になったが、マンガが非現実な絵空事でしかないと悟ったかというと、必ずしもそうではない。
私たちが一日のうちで確実に何分の一かの時間を過ごしているインターネット空間は、この赤塚ワールドとあちこちでつながっている。「拙者ビリヤードに行ってきたでござる」「ウソだよぴょーん」など、さまざまなことばが書き込まれ、さまざまなキャラが繰り出される様子は、もはや日常である。
こういうことばづかいは「最近のことばの乱れ」以外の何物でもなく、「日本語の品格」を落とすから黙殺すべし、というのが常識的な考え方なのかもしれない。だが、ここに、これまでの文法を覆し、大きく進展させかねないものが含まれているとしたら、どうか。
これまでの文法では「日本語の文の最終末に現れ得るのは終助詞だ。終助詞の後に終助詞以外のことばが付くことはない」と考えられている。「雨だ」の後には終助詞「よ」が付いて「雨だよ」となる。その後には終助詞「な」が付いて「雨だよな」となるがもうそれ以上は何も付かない。「雨だ」に終助詞「わ」が付いて「雨だわ」、さらに終助詞「ね」が付いて「雨だわね」となるがそれで終わり、という具合である。
ところが、「ウソだよぴょーん」の「ぴょーん」や、「誰かねぷーん」の「ぷーん」などのことばは、これまでの文法が想定していなかった場所、つまり終助詞(「よ」「ね」)の後に現れる。
星について学びたいと思う人は、まず、客観的な態度で星を観察しなければならない。星が自分の思い通りの位置・時刻に現れないからといって「最近の星はどうも乱れている」と言うことはできない。
同じことだが、ことばについて学びたいと思う人は、客観的にことばを観察しなければならない。「最近のことばはどうも乱れている」と言いたいところをとりあえず我慢して、マンガやインターネットのことばを虚心坦懐にながめると、そこに面白いものが見えてくる。これまで想定されていなかった環境(終助詞のさらに後ろ)に現れる一群のことばがあるということは、これまで想定されていなかった品詞(キャラ助詞)を発見したということである。それは文の構造についてこれまでの考えを修正するということでもある。また、そもそも文というものについて考え直そうとすることでもある。ちょっと、すごいことではないか。
韓国語や中国語にもキャラ助詞相当のものが見られるが、日本語ほど自由活発にキャラ助詞が発せられ、キャラが繰り出される言語を他に知らない。日本語社会はまさにキャラの社会である。その中で人々がキャラに生き、キャラに悩む様子をしばし、のぞき見てみよう。