「あたしって、変わってるんです」
「あたし、けっこう尽くすタイプなんです」
といった発言は、自分のことを「変わっている」とか「けっこう尽くすタイプ」だとか、思ってくれということだろう。
だが、言われた通りに人が思うわけはない。「へー、そうなんだ」などと受ける相手は内心「あほくさ」と舌を出していたりする。発言者にその場で恥をかかせないよう、とりあえず話を合わせているに過ぎない。
にもかかわらず、こういう発言は老若男女を問わず後を絶たない。おじさんが、
「オレの若い頃はもう、カミソリみたいにピリピリしてたな」
なんて、さりげなく言ってみせるのも、「若い頃はカミソリ、今は円熟した大人ということで、よろしく」ということだろう。
なぜ私たちは、しばしば「私はこういう人間です」発言をするのか?
なぜその「私はこういう人間です」発言は、発言者が思うような効果をあげず、失敗するのか?
* * *
先日出した『煩悩の文法』(ちくま新書)の評判が気になる。だが、こういうことは、私にかぎった話ではないだろう。世俗を突き抜けてしまった人を別とすれば、私たちは日々、群れの中でお互いを評価しあい、他者から下される評価を気にして、舞い上がったり落ち込んだり、一喜一憂して暮らすしかない。
ところで、ひとくちに「評価」といっても、
「あの本はおもしろい~つまらない」のような作品評、
「あいつは歌を歌うのがうまい~ヘタだ」のような技能評、
「あの人はかっこいい人/まじめな人/下品な人」のような人物評
など、さまざまなものがある。
このうち、私たちにとって最も重要なのは何といっても人物評である。
「いい人/かっこいい人/セクシーな人と思われたい」「ダメな人/下品な人/ブサイクな人と思われたくない」といったきもちは、服を選ぶにしても化粧をするにしても、仕事をするにしても冗談を言うにしても、常に私たちをとらえて放さない(もちろん、私たちの内面はそれだけではないのだが)。
「他人にこう評価されたい/されたくない」と思うあまり、「私の評価はこう。こう評価して」と言ってしまいたくなる、というのもわからない話ではない。では、それがなぜ失敗するのか?
それは、この人物評が作品評や技能評と違って、「意図的な演出になじまない」という性質を持っているからである。
たとえば「レストラン・カルーソのリモンチェッロはうまい」という作品評は、その「うまさ」が料理人の意図によるものだとしても、つまり料理人が「「あそこのリモンチェッロはうまい」と評してもらおう」と意図し、努力した結果うまく感じられたのだとしても(たいていはそうだろうが)、まったく傷つかない。「松本チーフはいい腕だ」という技能評も同様である。
だが、たとえば「あの大学教授は豪快な人だ」という人物評は、そうではない。その豪快さが「「あいつは豪快な人だ」と評してもらおう」と意図し、努力した結果、豪快に感じられたものだと判明すれば、もはやその教授は豪快な人ではない。
人物評は「あの山は見事だ」のような自然物評の一種であり、そこに意図はなじまない。「私はこういう人間です」発言が墓穴を掘ってしまう原因はここにある。
では、望み通りの人物評を得るには、どうすればいいのか?(次回に続く)