日本語社会 のぞきキャラくり

第2回 「あたしって、~な人なんです」発言はなぜ周囲を苦笑させるか?

筆者:
2008年8月31日

 「あたしって、変わってるんです」
  「あたし、けっこう尽くすタイプなんです」
といった発言は、自分のことを「変わっている」とか「けっこう尽くすタイプ」だとか、思ってくれということだろう。

だが、言われた通りに人が思うわけはない。「へー、そうなんだ」などと受ける相手は内心「あほくさ」と舌を出していたりする。発言者にその場で恥をかかせないよう、とりあえず話を合わせているに過ぎない。

にもかかわらず、こういう発言は老若男女を問わず後を絶たない。おじさんが、
  「オレの若い頃はもう、カミソリみたいにピリピリしてたな」
なんて、さりげなく言ってみせるのも、「若い頃はカミソリ、今は円熟した大人ということで、よろしく」ということだろう。

なぜ私たちは、しばしば「私はこういう人間です」発言をするのか?

なぜその「私はこういう人間です」発言は、発言者が思うような効果をあげず、失敗するのか?

* * *

先日出した『煩悩の文法』(ちくま新書)の評判が気になる。だが、こういうことは、私にかぎった話ではないだろう。世俗を突き抜けてしまった人を別とすれば、私たちは日々、群れの中でお互いを評価しあい、他者から下される評価を気にして、舞い上がったり落ち込んだり、一喜一憂して暮らすしかない。

ところで、ひとくちに「評価」といっても、
  「あの本はおもしろい~つまらない」のような作品評、
  「あいつは歌を歌うのがうまい~ヘタだ」のような技能評、
  「あの人はかっこいい人/まじめな人/下品な人」のような人物評
など、さまざまなものがある。

このうち、私たちにとって最も重要なのは何といっても人物評である。

「いい人/かっこいい人/セクシーな人と思われたい」「ダメな人/下品な人/ブサイクな人と思われたくない」といったきもちは、服を選ぶにしても化粧をするにしても、仕事をするにしても冗談を言うにしても、常に私たちをとらえて放さない(もちろん、私たちの内面はそれだけではないのだが)。

「他人にこう評価されたい/されたくない」と思うあまり、「私の評価はこう。こう評価して」と言ってしまいたくなる、というのもわからない話ではない。では、それがなぜ失敗するのか?

それは、この人物評が作品評や技能評と違って、「意図的な演出になじまない」という性質を持っているからである。

たとえば「レストラン・カルーソのリモンチェッロはうまい」という作品評は、その「うまさ」が料理人の意図によるものだとしても、つまり料理人が「「あそこのリモンチェッロはうまい」と評してもらおう」と意図し、努力した結果うまく感じられたのだとしても(たいていはそうだろうが)、まったく傷つかない。「松本チーフはいい腕だ」という技能評も同様である。

だが、たとえば「あの大学教授は豪快な人だ」という人物評は、そうではない。その豪快さが「「あいつは豪快な人だ」と評してもらおう」と意図し、努力した結果、豪快に感じられたものだと判明すれば、もはやその教授は豪快な人ではない。

人物評は「あの山は見事だ」のような自然物評の一種であり、そこに意図はなじまない。「私はこういう人間です」発言が墓穴を掘ってしまう原因はここにある。

では、望み通りの人物評を得るには、どうすればいいのか?(次回に続く)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。