自分の人物評に対する私たちの思いには切実なものがある。私たちは何としても、他人から「あの人はいい人/かっこいい人/セクシーな人」と思われたいし、何が何でも「あの人はダメな人/下品な人/ブサイクな人」とは思われたくない。
だがその一方で、人物像は意図的な演出になじまない。善行を積むにしても「私がいい人だということを善行で示しましょう。ほら、この通り、いい人ですよ」と言ったのでは「いい人」とは評されない。誰にも見られていないと思える状況で人知れず善行を積む、その後ろ姿を見るまでは、他人は「あの人はいい人だ」とは認めない。
では、他人から「あの人はいい人/かっこいい人/セクシーな人」と思われるには、どうすればいいのか?――これが前回提起した問題である。
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この問題に対する安全確実な対処法というようなものは実はない。私たちにできるのは、「あの人はいい人/かっこいい人/セクシーな人」と思われることをすること、但し、「いい人/かっこいい人/セクシーな人だと思ってもらおうとしてやっている」という意図を隠して決して悟られないようにし、さも何気ない風を装うということである。湖面上をスイーッと優雅に進む白鳥が、実は水面下で猛烈に水を掻いている、あれと同じである。間違っても、「これで私のこと、いい人だと思ってもらえますよね」てなことを言ってはいけない。意図がバレたりするともう台無しである。
谷崎潤一郎の『細雪』中巻には、幸子(さちこ)という女性が奥畑(おくばたけ)という人物を不愉快に感じていると記されている短いくだりがある。なぜ不愉快なのかというと、奥畑が乱暴者だとか不道徳だというわけではない。奥畑のしゃべり方がいやにゆっくりしていて、大家の坊ちゃんのようだからである。
ところが、奥畑は事実、没落しかけとはいえ大家の坊ちゃんであり、そのことは幸子も承知している。奥畑に対する幸子の不快感は、貧民のくせに大家の坊ちゃん然としやがって、というような「身分詐称」によるものではない。
『細雪』には、奥畑のしゃべり方に、大家の坊々(ぼんぼん)としての鷹揚(おうよう)さを衒(てら)う様子が見えて幸子は不愉快、とある。
余裕たっぷりに育てられた大家の坊ちゃんである奥畑のしゃべり方がどうしてもゆっくりしていて、そこに鷹揚さが感じられるというのが許せないというのではない。幸子が許せないのは、奥畑が「オレのこういうゆっくりしたしゃべり方って、いかにも大家の坊ちゃんっていう感じで、かっこいいじゃん。この調子でしゃべろうっと」と、意図的にゆっくりしゃべっていることである。
もちろん奥畑は、そういう演出意図を露わにはするまい。幸子に看破されているとも知らず、他人から「奥畑さんって、しゃべり方がゆっくりしてますよね」と言われたら「え? そうかなあー」などと、やはりゆっくりしたしゃべり方でトボケてみせるに違いない。
もしも、こういう奥畑の意図が幸子の思い過ごしだとしたら、奥畑はまったくお気の毒としか言いようがないのだが、思い過ごしであろうとなかろうと、幸子は己れの感覚を頼りに周囲の人物を判断して生きていくしかないのだ。それは奥畑も、また私たちにしても同じである。
「望みの人物評を得るために、自分のキャラクタ(人物イメージ)をさりげなく演出しよう。だが、その意図を察知されてなるものか」という取り繕い、そして「こいつのキャラクタは本物か。キャラクタを取り繕われてなるものか」という勘ぐりは、私たちの日常会話での、ごくありふれた「暗闘」の一部分と言えるだろう。