漢字の現在

第86回 方言と漢字

筆者:
2011年3月8日

愛知県内では、名古屋辺りで、女子学生が友達同士で、「でら楽~」としゃべっていた。「ど+えらい」が「どえりゃあ」のように変化し(実際には仮名では対応できない母音を含む)、それがさらに縮まって「でら」となったものなのだろう。ただ、「でら」は外来語の「デラックス」から生まれた語ではないか、という俗解もなされる。トリプル選挙を勝利に導いた市長の話すような流暢な名古屋弁は薄れつつあった。


それでも、国語学の教科書にあるような語尾につく「りん」も、三河の子などは、
 「来(こ)りーん」「食べりん!」
と、実際に「り」の音も明瞭に滑舌良く喋る。だんだんと、以前に見聞きしたことを思い出してきた。

文字にはほとんど現れないが、口頭語では、イントネーションやアクセントに特徴があった。三河や尾張の発音と方言は、静岡のそれとも微妙に異なっていた。テキストを読みあげてもらうと、アクセントが部分部分で東京と異なるほか、外来語の「メーカー」も、
 「メ~カー」
のように、なぜか波打って聞こえる。

語彙では固有名詞に関わる有名どころで、「めいだい」と言えば「明治大学」ではなく、やはり「名古屋大学」を指すとのこと。「名駅」、「メ~テレ」も同じく「名古屋」の頭文字「名」を音読みさせたことからできた略称だ。このテレビ局名の長音符的な「~」は、もしやこの辺りの口語での独特な抑揚を表すのでは、と想像してみたが、これはそうではなかった。

名古屋周辺では、学校での休み時間は「放課」と称されているので、テレビアニメで「放課後」と出てきたときに、何のことか分からなかったとのこと。「模造紙」も、全国で「B紙(し)」という名称なのだと、固く信じていた(皆の話では、B1判のことだそうだ)。学校で使う用語には地域差が大きいことは、黒板消しの「ラーフル」(宮崎など)でも有名だ。

講義の初めに、大学での講義の1時間目のことを東京などと同様に「1限」というのかどうか、恐る恐る聞いてみた。これはそうだといい、安堵する。ケータイで「1限」がなかなか漢字変換されなかったということは、これが全国的、普遍的な語ではないためか、辞書に載らないことがあり、かつ社会人になると忘れてしまいがちな語であることが関連していたのではなかろうか。北海道に行った時には、「1限」でも通じはするのであろうが、たしか「1講時」と言っていた。

「「かんぴんたん」って知っている人?」

一人だけだが、やはりいた。隣の三重県の出身という。「田んぼの脇で、蛙や蜥蜴がかんぴんたんになっている」、「ご飯がかんぴんたんになる」というように干からびている状態のものに使うとのこと。漢字は知らないが、標準語だと思っていたそうだ。いわゆる気付きにくない方言であるわりに、なんとも愛嬌のある発音である。そして、なんのためにそんなものに命名がなされたのか、気になる。

乾物屋の看板に「かんぴんたん」と大きく書いてあるところもあるそうで、人によって使用範囲に差があるようだ。「素寒貧」と同源で、その意味で江戸時代には広く用いられていた。「寒貧短」と貧相な字が並ぶこともあった。語源がこれらの漢語でないとすれば当て字ということになろう。千葉でもニュアンスが似た意味で使うとのこと。登校時に、授業での収穫をさっそく友達同士の会話で、いきいきと使っている女子の声が耳に届いた。

方言は漢字で表記されることは少ないが、漢字表記があるからといって共通語とも限らないのである。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。