マッガリンの挑戦を受けて立ったのは、シンシナティのトローブ(Louis Traub)という人物でした。トローブは、ロングリー式速記タイプライティング専門学校(Longley’s Shorthand and Typewriting Institute)というタイピスト学校を経営していて、そこで「Caligraph No.2」というタイプライターのタイピング法を教授していました。
シンシナティは、シカゴの南東にあるので「シカゴ以西」ではなかったのですが、マッガリンはトローブと1対1で戦うことにしました。期日は1888年7月25日、場所はシンシナティ6丁目ワイン通り北西角のパレスホテルビルディング16号室、グラハム式シンシナティ表音速記アカデミー(Graham’s Cincinnati Phonographic Academy)と決まりました。また、これに加えマッガリンは、メトロポリタン速記者協会(The Metropolitan Stenographers’ Association)が翌週8月1日に開催予定のタイプライターコンテストにも、参加を決めました。それと同時にマッガリンは、レミントン・スタンダード・タイプライター社やアメリカン・ライティング・マシン社(「Caligraph No.2」の製造元)に対し、「メトロポリタン速記者協会主催のタイプライターコンテストにおいて、タイピスト世界一を決めたい。ついては最速のタイピストを参加させるように」との趣旨の手紙を送りつけました。
1888年7月24日、シンシナティに到着したマッガリンは、翌日にひかえたトローブとの一戦の前に、ニューヨークの『The Phonographic World』誌に宛てて、以下のような手紙を送っています。
今しがた私が聞いた噂では、シカゴを代表する速記者のデメント氏(Isaac Strange Dement)は、タイピストとしても世界一速いとのことです。しかしながら、私はそれに異論があります。つきましては、まもなく開催されるニューヨーク州速記者協会(The New York State Stenographers’ Association)の年次大会において、デメント氏に対しタイプライターで挑戦する場を設けていただきたく、ここにお願いする次第です。デメント氏も、私とのタイプライターコンテストを、熱望されると思います。
フランク・E・マッガリン
筆まめ(というよりはタイプライターまめ)だったマッガリンは、1888年の夏季休暇の間にアメリカ中のタイピストと戦うべく、あちこちに手紙を書き続けていたのです。
(フランク・エドワード・マッガリン(4)に続く)