25歳となったマッガリンは、1886年6月30日に結婚しましたが、生涯、子供はなかったようです。結婚とほぼ同時に、ユタ準州ソルトレークシティにある第3地方裁判所の公式速記官に応募し、1886年9月に採用されました。マッガリンの速記能力が評価されたと同時に、タイピング能力も買われたのです。マッガリンは速記の反訳を、手書きではなくタイプライターでおこなっており、しかも他の候補者の誰よりも速かったのです。当時の新聞を見てみましょう。
実際、マッガリン氏は「タイピングのスピードでは誰にも負けない」と主張しており、その点に関して500ドルを賭けることを明らかにした。氏は、原稿から眼を離さずにタイプライターを打つことができ、指をどう動かすべきか完全に記憶している。氏のタイピングスピードは毎分100ワード以上に達しており、平均的な速記者の速記スピードよりも速い。
―『The Salt Lake Daily Tribune』1886年9月10日(4頁5列)
さらにマッガリンは、以下のような挑戦的な手紙を、シカゴの『The Typewriter Operator』誌1888年1月号に掲載しました。
ソルトレークシティ、1887年12月13日Typewriter Operator誌編集者御中
国内に多くのタイピストがひしめくなか、数々の種類のタイプライターが使われ、異なるタイピストによって、あるいは異なるタイプライターによって、さまざまな相矛盾する言及が、タイピングのスピードに関してなされている現状を鑑みるに、どのタイピストが本当に速いのか、決着をつけるべき時期が到来しているように思われる。それゆえ、この期におよび、タイプライターの権威である貴誌を通じて、私は以下のアナウンスをおこないたい。
全てのタイピストに挑戦する。タイピングスピードのコンテストで、500ドルあるいはそれ以上を賭けて、私と競われたい。賭金は、コンテストの参加者数で総額を均等に按分し、各人が按分額を事前に準備しておくものとする。場所はシカゴあるいはシカゴ以西のアメリカ国内の都市、期日は1888年7月あるいは8月中とする。ただし、私個人としては、ソルトレークシティでコンテストをおこなう場合には、賭金は50ドルでいいし、期日もいつでもいい。コンテストは、少なくとも2時間以上に渡って、参加者の誰にとっても初見となる裁判所の文書を、タイプライターで清書するやり方とする。タイプライターは大文字・小文字の両方が使える機種を用い、清書後の文章には略符や速記語を用いてはならない。コンテストの審判は3人とし、いずれも中立で公正であること。
読者諸賢の叱正を求む。
F・E・マッガリン
マッガリンのこの挑戦は、『The Typewriter Operator』誌1888年2月号にも掲載され、さらに『The Cosmopolitan Shorthander』誌1888年5月号にも転載されました。そうしたところ、マッガリンの挑戦に応じる者が現れたのです。
(フランク・エドワード・マッガリン(3)に続く)