四半世紀以上前に、学部生として、当時は卒業単位にならず、さらに授業料を払って取ったベトナム語の授業は、前年に同じ条件で履修した朝鮮語よりも一層人気がなかった。途中からはマンツーマンの特別贅沢な講義となった。昭和も終わりに近づくその頃、教室で習ったローマ字の短文や文章を、家に帰ってから復習として漢字と字喃(チュノム)に直すことに励んでいた。
パソコンやネットはもちろんなく、あまり良い辞書もない時代で、越漢辞典まで用いるなど、もろもろ苦戦したが、人生、何が役立つか分からない。ありきたりだし言っても詮ないことだが、もっとたくさん勉強しておけば良かったとも思う。今、その建物の教室で、後悔を含めた僅かな経験から、興味があることは何でもやっておくことを、現在の学生たちに勧めている。
ハノイの教室内に集まった学生と修士課程の院生たちは、これも単位になるのだそうで、どうやるのか成績も付くらしい。東洋学・ノム字(チュノム)・ベトナムの漢文、日本語・中国語などを専攻・勉強している学生・院生たちだそうで、専攻の関係か女子のほうが断然多い。先生も数名いらして、少し話しづらい。皆、漢字が分かるという。
漢字の話をするということで、まず「皆さんは、漢字が好きですか?」と尋ねてみた。すると、ニコニコしながら皆がハイと返事をして、続けてなぜか拍手がわき起こった。これは共感を得たということなのだろうか、日本での講義とは雰囲気が違う瞬間だ。漢字が日常から消えて不便はないのか、復活させたいと思っているのか、授業の最後に聞いてみよう。
日程の都合で、たったの2日間だけだが 午前中にみっちり行われる。授業自体は、朝の7:00から夕方の5:00まで行われているとのこと。ベトナム人は、南国らしいおおらかさと、勤勉さを兼ね備えているようで、学生たちも概して熱心だ。当たり前のことだが、寝たり私語をしたりしない。珍しい外国からのGS(教師)ということもあってだそうだが、礼儀正しく、おしゃべりや居眠り、内職はほとんど見受けられない。ふだんは、いねむり、おしゃべりくらいはあるという。とくに大人数教室ではやはりおしゃべりがあるが、教員が怒って黙ると学生たちも静まる、その秩序がこの地ではまだ生きているのだそうだ。
漢字のことを「字漢」(トゥーハン)と呼ぶほか「字儒」(チューニョー)と今でも言うとのことだ。前者は当然だが、両方とも使うと確かめられ、さすが儒教の四書五経的世界、とくに宋学を重んじ、科挙による国家公務員登用が中国よりも後まで実施されていた国だと驚いた。
日本で有名な「ベトちゃんドクちゃん」は学生たちには知られていないようだった。学生たちは「アオザイ」を着ているものがおらず、その漢字・チュノム表記(第39回)も知らない様子だった。日本人も着物は日常は着ないし、「衽」「褄」などの漢字・国字はふつう知らないだろう。
その一方で、日本人が教科書で習う「安南」はもちろん知っていて、さらに、
「大」の字に寝る
「五」の字に足を組む
という表現は、漢字を知らない人でも、今でも使い、正しくその姿をイメージできるのだそうだ。前者は日本でも韓国でも使う表現だが、中国では古くはそのままの表現が見当たらない。後者はベトナム人の発案だろうか。
漢字を知らない人たちには、これらの表現を使うときに、どういう「字」(?)の像が頭に浮かぶのだろう。単なる慣用句となっていて、日本人が「金字塔」や「そうなればオンの字だ」と言うときに「金」がピラミッドの形であることを意識しない人がいたり、「御の字」であるとは思えなくなっている人がいたりしても、何も問題とならないことと同じと考えれば良いのだろうか。
江戸時代には、日本からの漂着民がベトナムで筆談をした話もしてみた。これは、「ア~」と納得してくれる。筆談は、かつてそれを目の当たりにしたヨーロッパ人たちを驚嘆させ、漢字を基に「真正文字」を試作せしめたものだ。ただ、江戸時代には漂着民の筆談でも「籾」という字がベトナム人に通じなかったそうだと話すと、今も確かに知らないとのこと、笑いが起こった。これは日本製漢字、いわゆる国字とされるものなので、筆談が不能なのは当然である。
漢字との距離感が中国とも日本とも微妙に違っていて、さらに個々のテーマごとにも差があるようだ。共通点と相違点を手探りで測りながら、話を続けていく。