東南アジアの濃密な気配と強い眼差しの中で行える講義は、とても新鮮だ。中国や韓国の教室とも何かが違う。日本の公立小学校を真夏の日中に参観したとき、冷房なしで日焼けした半袖の子供たちの織りなす授業風景に、東南アジアのような雰囲気が漂っていると感じたものだが、本当の南国の学生たちの真剣な容貌は、やはりそれとは違っていて、どこかエキゾチックに感じられる。
ベトナムの国民文学は『金雲翹(キムヴァンキエウ)』だが、国民文学とはいえ、元は清代に中国で生まれた作品で、そこでは有名とならなかった中国の才人の恋愛小説がベトナム語独特なリズムの六八体になるように、チュノムを交えて翻案されたものだ。ベトナム人は、その文言を会話にちりばめ、教養を確かめ合うとのこと、大学生たちに暗記しているのか聞いてみたところ、全部は覚えていないという。なるほど、日本人だって古典文学を最後まで丸暗記など普通しない。
大学への進学率は、中国と比べるとまだ半分程度で、10%台という統計がある。日本のように中学生はほとんどが進学し、高校生もまた半分以上が大学に進むという社会とはだいぶ違いがある(教育熱の高い韓国は、それが90%を超えたとか)。
学生たちは、さすが、チュノムも読める。竹を意味する形声の「椥」は、ジェー(チェー)と読めた。ベンチェ(Tỉnh Bến Tre ベンチェ省・市 ベンは船着き場・発着場の意)を地元ではベンチェーと言う。やはり南部だけのことはあり、省の名が普通に固有語となっている。「羅」の下半分を「廾」のように略すベトナム独自の異体字も「ラー là」と即座に反応してくれる。『大漢和辞典』に収まったチュノムと私が考えて調べている「紦」も書いてみたら、「ba」と賢そうな女子が声を上げた。「罷」の「ヒヒ」の部分を、意味を表す「七」に取り替えたチュノムには笑いが起きた。
異体字については、もしかしたら日本人に似た感覚を持っているのかもしれない。そう思って、
「广」と「廣」とは、同じ字ですが、どちらが良いですか?
と聞いてみた。
皆、「广」のほうが良いという。聞けば、「覚えやすいから」とのこと。この中には日本語学習者もいるそうだが、中国語を学習している学生が多いため、簡体字に慣れが生じていたということだろうか。日本人には正式な字としては、「まだれ」だけではバランスが悪く、欠落感さえも感じられがちなこの字体は、中国の人たちには「广」のほうが良い、むしろ中が広々しているとさえ言われる。とにかく、ここは日本的ではなかった。
ベトナムでは、この例に限らず、どうやら字の形が美しいかどうかということよりも、覚えやすいかどうかのほうが重要とされているように感じられる。漢字が生活から離れてしまって久しい。また、他の文字との比較の対象とする機会もない漢字に対して、情緒的な感覚を投影する精神的な余裕がないのかもしれない(いや、昨今の日本人が持て余しすぎているのかもしれない)。
俗字の説明で、「嬲」を板書したら、naoと読める。その元となった「嬈」という字も知っている様子だ。とてもよく中国語や漢字、チュノムを勉強している。北京語の「喝茶」や上海語の「喫茶」(吃茶)をホワイトボードに書くと、それらを北京語で読んでくれる。福建語の「啉茶」では、静かになり、当たり前だが読めない。この1字目はチュノムにもあるようだが、すべてのチュノムを知っている必要はむろんない。
さらにベトナムにとっても異国である韓国の漢字についても触れてみた。ベトナムでいう「長江大海」(冗漫)な話になると学生たちも退屈するので、クイズのようにしてみた。
秀 優 美 良 可
をランダムに板書し、韓国で行われている成績評価なのですが、良い順番に並び替えてみましょう、と出題してみた。ベトナムでは、「可」だけを語としては使っているという(第31回)。ここでは、なぜか回答の声がよく揃うのが不思議だったが、順序を上位の2つを逆にした以外は、ピタリと当てた。中国人や日本人には意外と外す者が多く、漢字を語感を滲ませながら使っている人々よりも、漢語や字義に対する感覚が鋭い点があるのかもしれない。韓国もかなり表音文字化が定着しており、漢字を排除した国のことば同士の間で、共通する意識が残っていることに感激を覚えた。さすが1000年いや2000年近くといえるほど永年にわたって漢字を使っていた国々だけのことはある。