高知市内では、学会の合間に、街や店の中をしばし観察してみた。
「鈑金塗装」と看板にあった。「板金」を「鈑金」と素材に合わせて偏を替えて表記する。これは音読みだが、意味が日本製ということで国訓といえそうだ。この表記はどこにでもあるようで、各地で観察される。職業集団における位相文字といえるが、街中で大きく書かれているので、よく目立つ。2つの字には用法に区別もあるとも聞いたが、実際のところどうなのだろう。これらの字には、別の語でもそういう話がある。
看板には「レンタル衣裳」という表記もある。この「衣装」に対する「衣裳」も、高知に限らず、どこにでも残っている表記だ(第147回)。
「総菜」も「惣菜」も見られた。常用漢字表に従った「総菜」はスーパーでも見かけ、たまたま付けていたテレビでも福島で使っていた。ここにも地域色は見いだせそうもないか。
「鮮魚」が、筆字風に書かれた看板で「れっか」の部分が「大」、2字目のれっかの部分が続け字でまるで3点のようになっているものを、かなり離れた場所で2つ見た。これも位相があり、けっこう全国的に広がっているようだ。
「皮膚」も「皮フ」も看板に見つかる。これらもまた全国的に広まっているようだ。大通り沿いの看板にあった「しぎ耳び科」は、子供向けということだろうか。あるいは「膚」と同様に、「鼻」の横線の多さが生み出した交ぜ書きなのかもしれない。「皮フ」は公的な書類に準拠する表記だとの話もある。常用漢字表で、「はだ」の訓を「肌」に譲ったこの字が、字音までもカタカナに座を譲るとすると、字種としての存在意義がますます薄れてしまうことだろう。
「空きあり」。看板にはほかに「空有」「空有り」などもあったように思う。漢字か仮名か、送り仮名はどうするかと悩めそうなものだが、これも地域色はなさそうだ。
「9じ~11じ」(じ2つは下付き)は、東京でも見かけるもので、何やらおしゃれで、堅苦しさをなくすことに成功している。書きやすく、またこれも子供でも読める。単位は概して略記された方が、書字に限らず種々の効率がよさそうだ。
「ecoる」という表記を、高知市内で見かけた。都内で女子学生が「エコ」は「eco」に表記が変わったから、皆が環境を守るようになったのだ、と力説していた。表記の心理に与える力は、ニュアンスの享受どころで済まされないものもありそうだ。
「伊太利屋」という店は、高知にもあった。小学校の時、都内で店名に見かけて、辞書にある「伊太利」だけでいいのにと、この当て字の応用に俗っぽさを感じて、嫌だった。それをまた「イタリアは漢字でこう書くんだ」と、やはり店で知ったと得意そうに言ってくる生徒がいて、さらに嫌になった。
都内の学生たちにも大人気の「よさこい」は、「夜来い」という意味深な解釈もあるようだが、どうも俗解の可能性が捨てきれないようだ。漢字表記は、市内では見受けられなかった。土佐の高知の「はりまや橋」を見ながらの朝食。日本三大がっかりなどという失礼な評も聞くが、もとから期待など抱かずに行けば、そこはかとない趣が感じられる。「はりま屋」という宿の看板を視て、ああ書いていると指摘する旦那さん、それを「当て字」と一蹴した奥さん。どこかのご夫婦の会話が耳に入った。
どこでもありそうな表記が多い一方で、高知の看板には、大きな「蹲踞」の字が記されていた。間に「つくばい」と小さく読みが振ってある。そこには「灯籠」など、難しめの字が並んでいた(バス車内からで、写真が間に合わず、もう一つは残念ながら忘却)。「籐」(ハの部分はソだったか)もゴシック体で看板にあった。「緞通」など表外字が立て続けに現れる。
龍馬の「先塋の地」とのぼりが立っている県内の地をホテルのテレビで見た。観光客にはなかなか読めない難字だ。地元でもどうだろう。ルビがあっても、意味は想像も付かない人が多い。後で、都内の大学生たちに聞いてみても、99%以上が意味を当てられなかった。逆に目を引いて、この独特な雰囲気の字の場所は何だろうという人々に訴求力を発揮し、呼び寄せる集客力があるのかもしれないが。