ことばとキャラクタとの結びつき方について第43回以来述べてきたが、今回の補足2点をもって一区切りとしたい。(各回へのリンク⇒第43回・第44回・第45回・第46回・第47回)
補足の第1点として述べておきたいのは、ここでは3つの結びつき方を一つ一つ取り上げたけれども、これら3つの結びつき方どうしが重なることも珍しくはない、むしろそれがふつうだということである。
たとえば冷徹無比な世界的狙撃者(スナイパー)・ゴルゴ13は、殺人依頼者に対して「つまり狙撃の標的は幼児性が強い男だな」とは言えても、「つまり狙撃の標的は『坊っちゃん』だな」とは言えない。また、「奴ならそこで少し笑うはずだ」とは言えても「奴ならそこでニタリとほくそ笑むはずだ」とは言えない。ゴルゴ13の口から「坊っちゃん」「ニタリとほくそ笑む」などという世俗的なことばが漏れ出た瞬間、ゴルゴ13のクールで超俗的なキャラクタがこわれてしまう。
つまり「坊っちゃん」ということばは、キャラクタのラベルであると同時に役割語でもある。同様に「ニタリとほくそ笑む」ということばは、キャラクタ動作の表現であると同時に役割語でもある。そもそもすべてのことばは濃淡の差こそあれ役割語なのだから(第28回参照)、これは当然の理屈だろう。
以上、ことばとキャラクタとの結びつき方として3つを見てきたわけだが、ことばとキャラクタとの結びつきは、実はこれら3つに限られない可能性がある。補足の第2点として、これについても述べておきたい。それは、あからさまなキャラクタ指定が、動作の行い手にとどまらず、行われ手にも及んでいるとも考えられそうな、「叱りつける」「説教する」「たしなめる」のような動詞もあるということである。
これらの動作の行い手(たとえば叱りつける者)は権威を持っている者、行われ手(たとえば叱りつけられる者)は権威を持っていない者である。この違いは、人物の深いところにまで届いている違いである。
たとえば、親の失敗を子が見つけたという場合、子が親に「ダメじゃないか!」などと「怒鳴る」ことはできるかもしれない。家庭内暴力をふるって「殴る」ことさえできるかもしれない。だが、「叱りつける」ことはそうかんたんにはいかない。「親とはいうものの、性格破綻者で長らく子の世話になっており、子に迷惑をかけ通しの親。以前から人格者で通っており、ふだんは親の顔を立てている子。しかし或る時ついに堪りかねて」といった文脈が必要になる。いや、人によっては、この文脈があっても「叱りつける」と表現するのは難しいかもしれない。
動詞「叱りつける」「説教する」「たしなめる」などのこうした行われ手指定は、キャラクタ指定でもあると考えてよいかもしれない。それは表現キャラクタに、行い手の表現キャラクタ・行われ手の表現キャラクタという2つの下位類を認めるということである。ことばとキャラクタの第2の結びつき方(ことばが動作の行い手を示す)と少し違った結びつき方(ことばが動作の行われ手を示す、いわば第4の結びつき方)を認めるということである。第43回以来、ことばとキャラクタの結びつき方を「少なくとも3つ」と書いてきたのは、この意味である。