「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第6回 採算度外視の「いいもの主義」

筆者:
2018年10月10日

『日本百科大辞典』は、日本ではじめての本格的な百科事典として、明治31年(1898)ごろ、三省堂の辞書編集者・斎藤精輔によって企画された。

 

明治29年(1896)秋、三省堂は『和英大辞典』(F・ブリンクリー他 編)を刊行した。この辞書の編纂時、動植物関係の専門用語の訳出で苦労したことが、『日本百科大辞典』の発案につながった。のべ数百人の学者・研究者に通訳を依頼して集めた各分野の専門用語にかんたんな解説をつけ、1冊の百科事典にまとめて出版したら便利だろうと思いついたのがきっかけだ。当初、斎藤は、その編修を2年あまりでしあげるつもりでいた。

 

当時の三省堂には、辞書編修の核たる存在である斎藤精輔はもちろん、ひとりひとりの社員にいたるまで、「辞書のために働く」「よりよい辞書をつくる」という気風が浸透していた。『日本百科大辞典』は、そんな基本理念のなかから生まれた企画だった。

 

編修は、明治31年(1898)からはじまった。各分野の識者から原稿をあつめて整理し、印刷のための組版が開始されたのが明治36年(1903)。第1巻が刊行されたのは明治41年(1908)のこと。すでに企画発案から10年、組版開始からでさえ5年の年月がながれていた。

 

なにしろ、当時は金属活字をもちいた活版印刷である。百科事典という膨大な情報量、ページ数の原稿を組むために、金属活字を1字1字、棚からひろって版を組んでいかなくてはならないのだ。その作業量と活字の物量は、コンピューターで組版をおこなっている現代のわれわれには、想像することすらむずかしい。

活版印刷では、必要な金属活字を職人が棚から1字ずつ手で拾い(文選)、版を組んだ(写真は大正7、8年ごろの三省堂印刷 植字部)

活版印刷では、必要な金属活字を職人が棚から1字ずつ手で拾い(文選)、版を組んだ
(写真は大正7、8年ごろの三省堂印刷 植字部)

しかも、「1冊にまとめたら便利」というアイデアからはじまったはずが、「よりよい百科事典をつくろう」と進められるうち2巻、3巻と増えていき、ようやく1巻の発売開始となったときには、全6巻と索引1巻の合計7巻の計画へとふくらんでいた。

 

1巻の刊行までに10年かかったため、当初集めた原稿は古くなり、使えなくなった。変更がくりかえされたことで、むだな原稿もかさんでいった。それにともない、活字組版は何度も組み替えがおこなわれることになった。そうして1ページの植字代(組版代)は通常の数十倍の金額へとふくれあがっていった。

 

三省堂の印刷所は、『日本百科大辞典』発行のために準備した六号活字の分量が、同書を3000ページ組み置きしても余りがあったと誇った。しかしそれも、後に三省堂社長となった亀井寅雄(創業者・亀井忠一の四男)は「過剰・先行投資の一例」と語っている。[注1]

 

内容がふくれあがったのは、斎藤精輔のこだわりの強さの影響でもあった。亀井寅雄は後にこれを「斎藤氏一流の採算を度外視したいいもの主義」[注1]とバッサリ斬っている。たとえば、芝居の挿絵のよいものがないからとわざわざ歌舞伎座に出向き、役者を使って撮影して持ち帰ったにもかかわらず、やはり気にいらずに使うのをやめてしまったことがあった。あるいは、柔道のよい挿絵がないからと講道館に出向いて高段者に実演してもらい、それを撮影するということに多くの金をつかった。木版画にしても、極端なものでは百数十度刷りというものまであったという。

 

こうして、『日本百科大辞典』の編修は、三省堂の経営をしだいにおいつめていった。1巻の発売開始が報じられると注目を集め、申し込みも相次いだが、一方で「一出版社が取り組むには無謀な計画なのではないか」と、企画の先行きを懸念する声も聞かれるようになった。

 

『日本百科大辞典』第1巻は明治41年(1908)11月に刊行。第2巻は明治42年(1909)6月、第3巻は明治43年(1910)3月、第4巻は明治43年(1910)12月、第5巻は明治44年(1911)8月、そして第1巻発売時に「終巻」として発表した第6巻は大正元年(1912)8月に刊行された。しかしそのころには、『日本百科大辞典』の内容はすでに、6巻でも収拾がつかないほどにふくれあがってしまっていた。6巻では終われなかったのだ。

 

そうして第6巻が刊行された大正元年(1912)。2か月後の10月18日に、三省堂の経営破綻があきらかとなった。

 

※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)

[参考文献]

  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。