明治14年(1881)4月8日、古本屋として出発した三省堂は、創業2年ほど経つと、そのかたわら出版業をいとなむようになった。さらにこの店舗が明治25年(1892)の神田の大火で焼失すると、古本屋をやめ、出版と新刊書店の2本立てで再出発をきった。
出版社としての三省堂は、辞書、教科書、参考書の分野で着実に実績を重ね、創業30年の“第一黄金時代”を築きあげていった。なかでも力を入れたのが辞書だった。これは、明治21年(1888)9月に出版した辞書『ウェブスター氏新刊大辞書和訳字彙(以下、和訳字彙)』の編修過程で、のちに三省堂の辞書編修の核として欠かせない存在となる斎藤精輔を得たことがおおきい。三省堂は辞書、教科書、参考書の3本柱のなかでも辞書にもっとも力を注ぎ、「辞書は三省堂」のスローガンをもって天下にのぞんだ。[注1]
斎藤は明治元年(1868)7月、山口県岩国町の生まれ。16歳で東京に出て勉学にいそしんだが、体調をくずして一度帰郷し、19歳でふたたび東京に出た。20歳で東京農学校に入学し、同時に毛利公爵の六男・毛利六郎の家庭教師を務めた。そのときすでにそうとうに英語に堪能で、国漢文の素養もあり、「世にも珍しき百科辞典的な存在」[注2]であった。亀井忠一が斎藤を知ったのは彼が20歳のときで、最初は三省堂の顧客としてだった。『和訳字彙』の編纂を依頼された田中達三郎が彼の学識に注目し、助力を頼んだことから、三省堂の辞書編纂にたずさわるようになった。
「最良のものをつくるためには時間と手間、金を惜しむな」が口癖だった三省堂創業者・亀井忠一は、採算を度外視してでもよいものをつくりたいという思いのつよいひとだった。そして編修所の責任者であった斎藤精輔もまた、よい辞書をつくりたいという気持ちをつねに抱いていたひとだった。
そうやってこだわりをもちながら数々の辞書を編纂し、「辞書は三省堂」の実績をつくりあげてきた斎藤が、ある日提案したのが、「日本ではじめての本格的な百科事典をつくりたい」という大事業だった。明治31年(1898)のことだ。この『日本百科大辞典』出版企画に、忠一は賛成した。
三省堂という一出版社にとって、その計画は冒険だということを、忠一はよく理解していた。しかし斎藤いわく「由来任侠と胆気を以て自らを矜持する」忠一は、冒険的だからこそその計画を評価し、斎藤に全幅の信頼をよせて計画の遂行にあたらせた。そして三省堂の全資産をかたむけて、経費を投ずることを惜しまなかった。
社運を賭した、記念碑的な出版事業。
この『日本百科大辞典』の出版が、三省堂創業30年の“第一黄金時代”を一挙に崩壊へとみちびくことになった。
[参考文献]
- 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
- 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
[注]