「人物の挙動が,その人物のキャラクタにふさわしくないことばで表現されることも,文脈によっては例外的にあり得る」として,これまでに例外的な文脈を2つ挙げた。第1の例外的文脈は「リアル文脈」で,この文脈は「微罪の親近感効果」を持っていた(補遺第40回・第41回)。第2の例外的文脈は「「つもり」「ホント」の混在文脈」で,この文脈はかわいさをかもし出す肯定的効果やアイロニカルな否定的効果を持っていた(補遺第42回・第43回)。
第3の例外的文脈を紹介する前に,ここで,さまざまな動物に対する我々の「キャラづけ」を見ておこう。
既に述べてきたように,直立姿勢の持続行動を「たたずむ」と表現され得るのは,それなりの落ち着いた雰囲気をそなえた『大人』キャラに限られる。アニメ『サザエさん』のタラちゃんは,「じっと立つ」ことはできるが,「たたずむ」ことは難しい。そして,鶴なら「湖のほとりにたたずむ」ことはできるが,ヒヨコなら,いや,親のニワトリでも「たたずむ」のは難しいと我々が感じるなら,それは我々が人間だけでなく動物にもキャラづけをしているからである。スラリと伸びた長身であまり動かないことも多い鶴には『大人』キャラを当てはめやすく,相対的にずんぐりしていてよく動くニワトリには『大人』キャラを当てはめにくい。
いまの例では「じっと立つ」という,中立的にも思える表現が存在したが,そのような場合ばかりとはかぎらない。「あてどなくさまよう」は或る種のかっこよさを備えており『幼児』キャラには難しい,「うろつく」「うろうろする」は格や品の高いキャラにはふさわしくない,「徘徊する」は『老人』キャラの臭いがきつい,という具合に,類義的なことばでも表現キャラクタが大きくずれていることは珍しくない。そして,野良犬やハイエナは「うろつき」やすいと我々が感じるのは,我々がこれらの動物のキャラクタを(格や品が下劣なものと)勝手に決めているからである。
類義的なことばが見当たらず,一つのことばを用いるしかないという場合もある。「しがみつく」がその例で,「自身の身体を他の物体にほぼ付着した状態に固定させようと四肢に力を込めている」と記述してもわけがわからない。だが,「しがみつく」ということばは動作だけでなく,動作主の弱々しいキャラクタをも表してしまう。「コアラが木にしがみついている」と言う時,我々はコアラのキャラクタを『弱者』と決めつけていることになる。
さらに次の図のような,カエルアンコウの「歩行」を見てみよう。
図:カエルアンコウの「歩行」(左から右への連続5コマ)
これは,カエルアンコウという魚が胸ビレで海底を「歩行」する様子を連続する5枚の写真でとらえたものである。(頭部は体の右側で,画面右に向かって進んでいる。) この「歩行」ぶりは「体を左に傾け,右の胸ビレをゆっくり高く挙げて前方に降ろし,それと同時に今度は体を右に傾けて,……」のように述べても,読み手には何のことやらわからない。もう,「ずんぐりした体」で「えっちらおっちら」と言うしかないのではないか。だが,そのように記述することは,この魚を『鈍重な者』としてキャラづけすることでもある。近づいてきた獲物にこの魚が食らいつく速さは,魚類の中でも群を抜くと言われているにもかかわらず,である。
このように,動物のキャラづけには,その動物に対する理解をゆがめかねない危険な一面がある。だがそれでも,我々は動物にキャラづけせずにはいられない。動物の挙動ひとつを描くにしても,まずキャラづけしなくては描写が進まないということが珍しくない。