国語辞典の語釈は、正確で分かりやすいだけでなく、オリジナリティー、つまり、独自性も必要です。大学生に聞くと、辞書の語釈に独自性があるとは思っていない人が多いのですが、それが誤りであることは、第6回・第7回・第8回で述べたとおりです。
学習国語辞典(学習辞典)の場合はどうかというと、語釈に独自性を出しにくい部分は、たしかにあります。何しろ、基礎的な項目を、子どもにも分かる限られた語彙で説明しなければならないのですから、どうしても似通ってきます。
たとえば、「ワンピース」は、どの学習辞典も、だいたい「上着とスカートが続いている、女性用の洋服」と説明してあります。一般向けの『三省堂国語辞典』の場合、これに加えて、「女性用水着」も指すことや、略称の「ワンピ」も示してありますが、こういう情報は、子どもには不要です。子ども向けという枠内で個性を出すのはむずかしいのです。
だから、というわけではないのでしょうが、学習辞典の中には、他の辞書と説明が似通うことに、さほど抵抗感を持たないように見えるものがあります。
ある学習辞典が刊行された時、その宣伝の文章で、「本書は語釈に力を入れました。たとえば……」と、新規項目の語釈を例示しているのを読んだことがあります。ところが、その語釈は、同じ出版社の他の辞書を参考にしていることが明らかでした。宣伝ですから、「この部分は○○辞典の語釈を参考にしており……」とくわしく書く必要はありませんが、いささか違和感を持ったのは事実です。
もっとも、同じ出版社の辞書なら、語釈を参考にすることはありうると思います。あとがきなどで断っておけば、なおいいでしょう。ある辞書をもとに、その「子ども版」として学習辞典が作られることはあり、必ずしも悪いとは言えません。
一方、別々の出版社から出ている学習辞典の語釈が、互いに偶然とは思えないほど似ているのを見ると、強いひっかかりを感じます。第12回で紹介した「現在」の例はその典型です。A辞典とB辞典の語釈が、用例までそっくりという場合は、どちらかが、参考という範囲を超えて、模倣を行った結果だろうと思われます。そういうことに抵抗感を持たない辞書は愛用できないし、人に薦めることもためらわれます。
2つの語釈を混ぜ合わせた?
具体的に、ひどく似ている語釈の例、今ふうに言えば「激似」の例を挙げます。「ピアノ」の語釈をA・B・Cの3つの学習辞典から引用します。
〈けんばん楽器の一つ。大きな箱の中に、何十本もの金属の線が張ってあり、白と黒のけん盤をたたくと、それにつながるつちが、線を打って、音が出る仕組みになっている。〉(A辞典)
〈けんばん楽器。木のはこの中にふつう八八本の鉄鋼の弦がはってあり、けんばんを指でたたくと、弦がしんどうして音を出す。〉(B辞典)
〈けんばん楽器の一つ。大きな木の箱の中に、ふつう八十八本の金属のげんが張ってあり、白と黒のけんばんをたたくと、それにつながるハンマーがげんを打って音を出す。〉(C辞典)
A・Cの語釈は、「けんばん楽器の一つ」「白と黒のけん盤をたたくと」「それにつながる」などの言い回しが共通します。また、B・Cの語釈は、「ふつう八八本の」という特徴的な言い回しが共通します。ごく素朴に考えれば、Cの語釈は、A・Bの語釈を混ぜ合わせて作っていると判断されます。少なくとも、C辞典は、そう思われないように独自性を追求しようとした形跡がありません。
こういう語釈に接すると、「この項目は大丈夫だろうか」「この項目はどうだろう」と、いちいちの項目を疑いの目で見てしまいます。そして、実際、他の辞書と雰囲気の似ている語釈や例文はしばしばあります。たとえば、「慕う」のC・D辞典の例文はこうです。
〈亡くなった祖父を慕う。〉〈子ねこがあとを慕ってきた。〉〈先生の人柄を慕う。〉(C辞典)
〈なくなった母を慕う。〉〈犬がぼくのあとを慕ってついてくる。〉〈先生の人がらを慕う。〉(D辞典)
互いに、きわめて似通っています。このことは、別のE辞典と比べればよく分かります。E辞典の例文は、〈幼い弟が母を慕う。〉〈生まれ故郷を慕う。〉〈画家の作風を慕う。〉と、趣が異なっており、C・D辞典の近さが際だちます。
先にも述べたように、学習辞典では、項目数も、語釈に使える語彙も限られます。どこまでが偶然の一致で、どこからがその範囲を超えるかは、一概に言えません。でも、だからこそ、ほかの辞書と似ないように心がけてもらいたいと言うのは、無理な注文でしょうか。「われわれの辞書の語釈は、ほかとは違う。見比べてください」と胸を張る学習辞典があれば、そのことだけでも、きっと支持を得るに違いありません。