『新明解国語辞典』(三省堂)を「語釈がおもしろい国語辞典」として楽しんでいた私は、間もなく、「では、ほかの辞書はおもしろくないのか」という疑問に行き当たりました。そこから、ほかの辞書への興味が湧いて、大学生活を送るうちに、辞書の数も増えてきました。1冊に頼る生活から、複数を比較検討する生活へと、質的変化が起こりました。
楽しめる国語辞典は『新明解』だけでないということは、すぐに分かりました。たとえば、「時間」(または「時」)の項目などは、辞書ごとに個性のある説明がしてあります。
「時間」とは何か、と問われて、すぐに答えられる人は少ないでしょう。NHKの朝ドラでは、登場人物の青年が〈時間が経つということは、変化するということですわ〉と言っていました(NHK「ウェルかめ」2010.2.5 8:15)。「時間とは変化である」というのは、なかなかいい着眼点だと思います。では、国語辞典ではどうでしょうか。
まず、『新明解』を引いてみると、「時間」の項目でこう説明しています。
〈人間の行動を始めとするあらゆる現象がその流れの中で生起し、経験の世界から未経験の世界へと向かって行く中で絶えず過ぎ去っていくととらえられる、二度と元には戻すことができないもの〉(第六版)
例の名調子です。「時間とは、経験から未経験へ向かう流れだ」と喝破しています。
次に、『三省堂国語辞典』の「時」の項目ではこうなっています。
〈すこしも止まることなく過ぎ去り、決して もどることのないもので、直接に知ることはできないが、変化を通して、また時計などを使って知ることができるもの〉(第六版)
「直接に知ることができず、変化を通して知るものだ」という見方です。これは、上の朝ドラのせりふと通じるものがあります。
『岩波国語辞典』の「時」はこうです。
〈過去から現在へ、更に未来へと、とどまることなく移り流れて行くと考えられる現象。具体的には月日の移り行きの形で感ぜられる〉(第七版)
間接に知られるものだという含みは『三省堂』と同じですが、「月日の推移で知るもの」というところに特徴があります。
国語辞典によって違う把握のしかた
このように、「時間」というとらえどころのないものを、なんとか明快に定義しようと、それぞれの国語辞典が競っています。いわば「おもしろ語釈」の競作です。
「おもしろ語釈」がとりわけよく見つかるのは、物の形の説明です。たとえば、「マンボウ」という魚の形はじつにユーモラスですが、これはどう説明してあるでしょうか。
国語辞典を引き比べると、「卵形」と定義するものが多いようです。もっとも、「卵形」だけでは、ハンプティ・ダンプティみたいな魚かと思われてしまいます。『岩波』では〈体は扁平(へんぺい)な卵形で〉と、平べったいことを明示しています。
『大辞林』(三省堂)の描写は、かなりくわしいものです。
〈体は卵形で、著しく側扁し、背びれ・尻びれとひだ状の舵びれが体の後端にあり、胴が途中で切れたような特異な体形をしている〉(第三版)
注目したいのは、「胴が途中で切れたような」というところです。なるほど、多くの魚が長い胴体を持つ中で、マンボウは、まるで頭の部分だけが泳いでいるようにも見えます。『大辞林』の説明は、この特徴を捉えています。
『三省堂』も、最近「マンボウ」の項目を載せました。
〈円盤(エンバン)のような胴(ドウ)をもつ、全長約三メートルの さかな。からだの上下に、大きな ひれが ついている〉(第六版)
マンボウを「円盤の両側にひれがついたような魚」と単純化しています。大胆とも言えますが、姿が目に浮かびやすい説明ではないかと思います。
読者の中には、苦労して形を説明するより、マンボウの絵なり写真なりを示せばいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。でも、それでは、その対象を「把握」することにはなりません。
人間は、「時間」とか「マンボウ」とかいうぼんやりした対象を、「これは要するにこういうものだ」とことばに置き換えることで、はじめて把握(認識)することができます。国語辞典の役目のひとつは、その把握のしかたを示すことです。
国語辞典によって、対象の把握のしかたには個性があります。辞書を引き比べて「おもしろ語釈」を探すうちに、この違いを実感するようになります。