人物像に関わることばの意味が日々少しずつ変わっていく,その実態を問うという大仰な形で前回は終わってしまったが,私の答ならとうに決まっている。日々進行していくことばの意味変化とは,或ることばが或る文脈に現れるたび,その文脈でかもし出されている意味がそのことばに染みこんでいくということに他ならない。決まった文脈に頻繁に現れていることばには,その特定の文脈のイメージがつきまとい,やがてそのことばは,その特定の文脈の意味を帯びるようになる。つまり,カギは「文脈」である。
ここで,発話キャラクタ(話し手のキャラクタ)を少しだけ振り返ってみよう。「朝よ」「朝だよ」を比べると,『女』キャラが濃厚に現れているのは「朝よ」,つまり体言(「朝」)の後ろに直接「よ」を付ける言い方であった。その一方で,『江戸っ子』の『女』は「朝よ」とは言わず,「いつまで寝てんだいおまいさん,起きな。もう朝だよ」のように「朝だよ」つまり体言+「だよ」としゃべるのであった(本編第78回・補遺第12回)。このままでは,『女』キャラの話すことば(役割語)は,体言+「よ」なのか,体言+「だよ」なのかわからない。発話キャラクタを《私たち》タイプと《異人》タイプに分けて初めて,《私たち》タイプの『女』キャラの話すことばは体言+「よ」(「朝よ」),《異人》タイプに属する『江戸っ子』の『女』キャラの話すことばは体言+「だよ」(「朝だよ」)と整理がつくのであった。
発話キャラクタと同様,いやそれ以上に,私たちがここで見ている表現キャラクタ(描かれ手のキャラクタ)は,ことばとの結びつきが見えにくい。だが,だからといって諦めるのはまだ早い。表現キャラクタとことばの結びつきが無秩序だと結論づけるのは,発話キャラクタを《私たち》タイプと《異人》タイプに分けたような「工夫」をしてみてからでも遅くはないだろう。
そして,ここでもカギになるのは文脈である。表現キャラクタとことばの結びつきがはっきり見えないのは,文脈というものが私たちの想像以上に多様だからではないだろうか。文脈にはさまざまなタイプがあり,それぞれのタイプの文脈はそこに現れたことばに,さまざまな効果を及ぼす。
そのことを具体的に示す手始め,というより前提として,ここで,「はずがない」構文を使って,「或る事態を起こり得ない事態として語る」という文脈の効果について述べておこう。次の例文(1)を見られたい。
(1) 男が子を産む。
文(1)は少なくとも現時点での我々の常識(世界知識)と合わず,不自然である。男が子を産む,そんなことが起きるはずはない。だからこそ,次の文(2)は何の違和感もなく自然である。
(2) 男が子を産むはずがない。
この文(2)は,先の文(1)「男が子を産む」を「はずがない」構文が包み込んだ構造をしており,文(1)の不自然さを「はずがない」構文が吸い取り紙のようにすっかり吸収しきって,何の不自然さも残っていない。では,次の例文(3)はどうだろうか。
(3) 川が遅れる。
文(1)と同様,文(3)も我々の常識(世界知識)と合わず,不自然である。川が遅れる,そんなことが起きるはずはない。だからこそ,次の文(4)は何の違和感もなく自然な文に――なっているだろうか。
(4) 川が遅れるはずがない。
文(4)は,文(3)「川が遅れる」を「はずがない」構文が包み込んだ構造をしており,この点は文(2)と変わらない。だが,文(3)の不自然さは「はずがない」構文では吸い取りきれず,文(4)は不自然である。つまり,どんな意味的な不整合でも「はずがない」構文で解消されるというわけではない。
或る事態を起こり得ないものとして「はずがない」と言うためには,その内容がまずイメージされなければならない。[男]と[出産]の結びつきは,ごく一般に見られる[女の出産]を基に,[男と女]というこれまた日常よく取り沙汰されるペアを利用して,出産の主体を入れ替えるだけで得られる。それだけに[男の出産]は,映画『ジュニア』だけでなく,冗談や空想話の形で昔からずっと語られてきており,これをイメージすることに大きな支障はない。だが,[川]と[遅れ]の結びつきは多くの私たちにとって想定外で,なかなかイメージを結ばない。起こり得ないと言う前にそもそもイメージを結ばないので,[川の遅れ]の不自然さは「はずがない」構文で吸収しきれない。「或る事態を起こり得ない事態として語る」という文脈の効果は万能ではなく,イメージ不能のひどい結びつきは,この効果をもってしても救済されない。
さて,ここで次の(5)(6)を見てみよう。
(5) 上人様ががつがつ召し上がられるはずがない。 (6) 神がのこのこ出てくるはずがない。
まず(5)については,これを問題なく自然と判断する話者がいる一方で,「がつがつ」と「召し上がられる」の結びつきを不自然に感じる(そしてその不自然さは「はずがない」構文でも吸収されないと感じる)話者がいる。また(6)も,神をまったく敬っていない悪魔が仲間の悪魔に「そんな誘いをかけたところで神の野郎が誘いに乗って出てくるものか」といった意味で吐くセリフなら自然だが,曲がりなりにも神を敬っている話し手の発言としては,これを自然と判断する話者がいる一方で,私のような「神をも恐れぬ」言語研究者の「うーん,神の登場の描写なら「のこのこ出てくる」はおかしいよなあ」といったメタ言語的なつぶやきとしてしか許容できないという話者、さらには、「神」と「のこのこ出てくる」の結びつきがとにかく不自然という話者もいる。ことばの現象が大抵そうであるように,話者たちの反応はここでも多様だが,一部の話者にとって「はずがない」の効果がかなり限られたものでしかないということは,これらの話者にとって「がつがつ」と「召し上がる」の結びつきや,「神」と「のこのこ出てくる」の結びつきは,イメージできないほどひどいということである。表現キャラクタとことばの結びつきは,意外に堅牢なのかもしれない。
では,そのような結びつきをぼやかしている文脈について観察してみよう。