日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第38回 「ニタニタ」「にやり」「にったり」について

筆者:
2013年7月7日

前回のように,少し昔の文章を見ていて,ことばの意味の変化を感じることは珍しくない。次の(1)を見られたい。

(1) 総帥の袁紹も,はなはだ冴えない顔をしていたが,ふと座中の公孫瓚(こうそんさん)のうしろに立って,ニヤニヤ笑みをふくんでいる者が眼についたので,
「公孫瓚,貴公のうしろに侍立している人間は誰だ。いったい何者だ」
 と,質(ただ)した。――不愉快な! といわんばかりな語気をもってである。
 袁紹に訊ねられて,公孫瓚は,自分のうしろをちょっと振向いて,
「あ,この者ですか」と,それを機(しお)に一堂の諸将軍へも,改めて紹介した。
「これは涿県楼桑村(たくけんろうそうそん)の生れで,それがしとは幼少からの朋友です。劉備(りゅうび)(あざな)は玄徳(げんとく)といって,つい先頃までは,平原県(へいげんけん)の令(れい)を勤めていた者です。――どうかよろしく」

[吉川英治『三国志(一)』1939-1940,講談社吉川英治歴史時代文庫.]

現代の感覚なら,「ニヤニヤ笑みをふくんでいる」者といえば『正義漢』ではあり得ないだろう。だが,(1)で笑っているのは何と,清廉潔白を絵に描いたような劉備玄徳その人である。

もっとも,(1)が「謎の人物登場」という,少し凝った文脈における描写だということには注意しておく必要があるだろう。これは,バス停で見知らぬ老人から「ねえさんとよばれて思わずにやりとし」た謎の「女客」が,実は前の場面から八年後のヒロイン・大石久子先生だったという壺井栄『二十四の瞳』(1952)の例を挙げて本編(第93回第94回)でも紹介したものである。その際述べたのは,ヒロインが「にやりとし」たならキャラクタが壊れてしまうが,「にやりとし」た時点ではその人物はヒロインではなく謎の人物だったのだから,「にやりとし」てもよいということで,いま「謎の人物登場」の文脈と言うのはこのようなものである。

これと同じように劉備玄徳も,(1)では謎の人物として登場しているのだから「ニヤニヤ笑みをふくんで」も――いや,それはやはり無理というものだろう。何しろ劉備玄徳というのは,まあこの人ぐらい徳の高い正義の人はちょっと見当たらないという人物である。いくら謎の人物として描かれていても「ニヤニヤ」はまずい。「謎の人物登場」という文脈の効果は万能というわけではない。

考えてみれば,大石先生の「にやり」にしても,この文脈効果一つで不可能が可能になっているというより,「女性が年齢を若く見積もられたら「にやり」ぐらいはするかもしれない」という別の要因によって,大石先生がヒロインとはいえもともと「にやり」とする素地を持っており,そこに「謎の人物登場」の文脈効果が重なって「にやり」が実現したと見る方がよいのではないか。ということで,「謎の人物登場」という文脈効果だけに頼っていた,本編での説明は訂正させていただく。

だが,たとえ「謎の人物登場」効果がそれだけで万能で,不可能を可能にするものだとしても,次の(2)の「につたり」は如何ともしがたい。

(2) (や)せ皺びたる顔に深く長く痕(つ)いたる法令の皺溝(すじ)をひとしほ深めて,につたりと徐(ゆるや)かに笑ひたまひ,……

[幸田露伴『五重塔』1892]

現代語の感覚では,「にったり」と笑うのはやはり,スネにキズ持つとまではいかないまでも,何らかの『悪者』というのが相場だろう。だが,ここで「につたり」と笑っているのは『怪僧』でも『生臭坊主』でもない。完全な聖人と言える,極めて徳の高い上人様である。上人様は謎の人物として笑っているわけではないので「謎の人物登場」効果では説明がつかない。つまり,「にったり」ということばの意味変化をどうしても認めざるを得ない。

このような,人物像に関わることばの意味変化が,一朝一夕で革命的に成し遂げられたはずはない。私たちの日常生活の中で,何かが日々少しずつ変わっていったのだ。では,何がどのように変わっていったのか?

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。