1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、日米は開戦しました。18歳から26歳までの8年間をアメリカで過ごし、その後もアメリカと関わりながら生きてきた黒沢にとって、日米開戦は断腸の思いでした。しかし黒沢は、あくまで日本人として、軍需品とも言える「和文印刷電信機」の製造を続けていました。ただし黒沢は、蒲田工場内の小学校を「国民学校」に改組することだけは、断固として抵抗しました。黒沢は、蒲田工場で「皇国民」を錬成する気は、毛頭なかったのです。結局、蒲田工場内の小学校は、1944年3月で閉校となりました。
1945年になると、日本は敗戦色が濃厚になってきて、東京上空にもB-29が飛来するようになりました。4月15日の大空襲で、蒲田は壊滅的な打撃を受け、黒沢商店蒲田工場も操業停止の状態に陥りました。一方、銀座も何度も空襲を受けたのですが、黒沢ビルは奇跡的に焼け残りました。そして、8月15日の敗戦を迎えたのです。焼け残った黒沢ビルは、1946年1月に接収され、米国赤十字社ビルとなりました。
敗戦後、黒沢は早速、黒沢商店の活動を再開しました。戦時中は輸入が途絶えていたものの、黒沢商店はスミス・コロナ社の日本総代理店です。当初は、GHQが払い下げたタイプライターや、故障品を修理して取り扱っていましたが、1947年8月の貿易一部自由化以後は、シラキューズのスミス・コロナ社との直接取引を再開しました。けれど黒沢は、戦後になっても、黒沢商店を法人化しませんでした。あくまで個人商店としてやっていきたいと考えていたのです。この結果、黒沢は、1951年度の長者番付日本一となりました。もちろん税金も日本一ですが、黒沢自身は、こう述懐しています。
税金はなかなかに高い。しかし、正しく計算してみると、それが法的に正当なものとなっており、いやがおうでも、そう決っとるから、そう出さんならん。税金を払ってしまえば、それこそあとには一銭も残らん。それでも、生命までもということにはならぬので、一人前に喰わして貰って、働かせて貰って、社会に貢献させて貰うんですから、まア有難いことですよ。わたしが全国一になったというのも、わたしが全国一に儲けたわけでなく、ただ全国一に要領がわるいか、全国一に正直者であるかというだけなんです。ねえ、そうじゃ御座んせんか。
1952年2月、黒沢ビルの接収が解除されました。黒沢はほぼ毎日、銀座に出かけていき、接収で変わり果てた黒沢ビルを、自らのコテで復旧・修理しました。そして、1953年元旦、黒沢は、自宅で脳溢血に襲われます。1月26日、黒沢は帰らぬ人となりました。78歳の誕生日の3週間後でした。黒沢の告別式は、讃美歌の中、2月2日に黒沢ビルでおこなわれました。
黒沢が個人商店を貫いたがために、残された遺族は、莫大な相続税を支払う羽目になりました。蒲田工場の土地はその多くを売却し、税金に充てるしかなかったのです。この結果「吾等が村」は消滅しました。けれども、銀座の黒沢ビルは1979年まで残り、解体後、翌1980年にはクロサワビルとして復活しました。今も銀座五丁目交差点の西角には、黒沢の愛した黒沢ビルが、少し形を変えながらも佇んでいるのです。
(黒沢貞次郎終わり)