学問とはなにかという検討の続きを読みます。
而して其學に定義と云ふあり。則ちdefinition. 故に政事學は政事學の定義なかるへからす。
國とは何等を指して國と云ふへきものなるや。徒に土地あるを以て云ふ語にあらす。土地ありて人民あり、人民ありて政府ある之を國と云ふ。則ち英語state. 國の字は元ト或の字なり。其を境界して國と爲すの字なり。
(「百學連環」第2段落第15〜17文、第3段落第1〜6文)
現代語に訳してみます。
そして、学には定義というものがある。〔英語でいうところの〕definitionだ。政治学には政治学の定義がなければならない。
〔例えば〕「國」とはなにを指してこう呼ぶべきものだろうか。単に土地があることを指す言葉ではない。土地があって人民がおり、人民がいて政府があることをもって「國」というのだ。英語ではstateという。「國」という字は、もともと「或」という字である。そこに境界を設けて「國」とした字なのである。
それぞれの学問には定義があるというわけです。最初にここを読んだとき、「政治学とはなにか?」という意味の定義なのかと思いました。つまり、それぞれの学問についての定義がある、と読んだわけです。しかし、そのように読むと、次に学問の定義ではなく、「國」という言葉の定義が現れるので「はてな?」と混乱してしまいます。
そこで戻ってもう一度読んでみると、政治学そのものの定義ではなくて、政治学には政治学で用いられる定義があるというふうにも読めそうです。それぞれの学問にはそこで使われる言葉や概念についての定義がある、と補足してみたくなるところ。
例として持ち出されるのは「國」という言葉です。明示されているわけではありませんが、おそらく「政事学」に関わる語として選ばれているのでしょう。現在では「国」と書くことが一般的ですが、このくだりを理解するためには「國」でなければなりませんので、現代語訳でもそのままとしました。
土地があるだけでは國ではない。土地の上に人民がいる。人民がいるだけではなく、政府がある。これらが揃っているのを「國」というわけです。面白いことに、『西周全集』第4巻のこの箇所の欄外には、右のような図が添えられています。「土地」と「人民」があり、その上に「政府」が大きく書かれ、円で囲われていますね。三者の配置と大きさの違いが気になります。「土地」と「人民」を共に「政府」が管轄するという見立てでしょうか。これが西先生による図なのかどうかは分かりません。
「國」と並べて参照されているstateという英語は「国家」や「国」の他に「状態」という意味もありました。その語源であるラテン語のstatusは「立っていること」「背丈」「位置」「状態」「政体」「論争」といった多義を持つ言葉です。「国」とstateをめぐる古典語、英語、漢語、日本語の関係を追跡してみたいところですが、脇道に逸れすぎるのでここでは見送ります。
「國」の字の読み解きも興味あるものです。「或」を「口」で囲って「國」となったというわけです。ところで「或」という字そのものについても、これは「口」で区切られた場所を「戈(ほこ)」で囲い守るという説明を見たことがあります。それをさらに「口」で囲うとどうなるのか、頭がこんがらがってきそうです。それはともかく、漢字の場合、その姿形自体に意味があり、そのことが定義にも響いてくるという次第。
一口に「國」といっても、定義しないでおくと、人によってまるで違った意味で使ってしまうということがあります。だから、どのような意味で用いるのかということを明らかにしておく必要があるのでした。
しかし、ここが言葉の厄介なところですが、それでは「國」の定義に含まれる「土地」とはなにか、「人民」とはなにか、「政府」とはなにか……という具合に定義は定義を呼びます。言葉が言葉によって定義される限り致し方のないところでしょう。ときどき辞書を読みながら、「ここに使われている言葉の相互参照の具合を線で表してみたら、どんな網目が浮き上がるだろう」などと空想することがあります。言葉を使ってなにごとかを表すということは、否応なくそうした言葉同士の連環の全体と関わることでもあるのです。