「国語を嫌いな子をどうしたらいいでしょうか?」と聞かれたら、どうお答えになりますか?
私はそれは簡単なことだと思っていて、国語が嫌いとか本が嫌いとか、本が読めない、つまらないという人は、読まなくていいんですよ、本なんて。他に興味のあることがあると思うんですよ。ゲームでもスポーツでも他に好きなことや得意なことが、一つぐらいは誰しもある。それをやればいいのであって、みんなが無理して本を読む必要は全然ない。「本なんてつまらない」とハナから決めつけず、いつか性に合う本と出会った時のためにも、最低限困らない程度の漢字の読み書きぐらいはできるようにしておく。それでいいんじゃないでしょうか。たとえば私は、数学を好きになれって言われても無理です。プライベートな時間にまで計算問題を十五分やりましょうと言われたら、ヒーッってなる。無理に数学を好きにならなくたって、買い物に困らない程度の計算能力があればいいでしょう? 興味さえ捨てずにいれば、数学の問題を解くことはできなくても、本やテレビ番組を通して数学の世界や数学者について知ることはできます。
「計算能力は生きる上で必要な技術となります、だから勉強しておきましょう」という薦め方と同様に、「読書は生きる上で必要です、それは私たちの心を豊かにしてくれるからです」というような薦め方をされることがありますが、それはちょっと……。
違うんじゃないかと思いますね。本は一人で読めますから、自分の世界に入っていってしまうということでもあるんです。むしろ視野が狭まってしまう危険性だってあるわけです。「たくさん本を読んだら心が豊かになる、人格が磨かれる」というのは、「子どもを持ったら人間が大きくなりますよ」というのと同じ幻想です。もし、子どもがいる人が人間的に成長して心が豊かになるのであったら、いまごろこの世界はもっと良くなっているはずですよね。でもそうはなっていない。子どもを生み育てようと本を読もうと、それは人格とか心の豊かさとは単純に比例しないということです。自分の世界を広げていくのは大切なことですが、そのすべは本以外にもたくさんあります。たとえば、草野球とかサッカーで交流するとか、映画を見るとか。会社がそういう場であることもあるだろうし、インターネットの世界を通じてそれを獲得している人もいるだろうし。読書を特別に考えて無理に本を薦めるのは、良くないんじゃないでしょうか。そもそも、これをすれば心が豊かになるとか、これをしなかったら人間が堕落するということはないし、よかれと思ってしたことが、その子にとって苦痛であることだってあると思います。子どもによって受け取り方が全然違いますから。だからこそ教育は難しいし、だからこそ教育が重要。先生や教室内での友達とのかかわりこそ、人にとってすごく大事なことだと思うんです。子どもを型にはめようとする先生が一番よくない。それはどんなに熱心な先生でもよくない。なるべく多くの生徒の好奇心をちょっと刺激してあげることのできる先生、授業のなかで「そんな話があるのか!」というような刺激をちょっとした雑談とかで提供してくれるような、そういうセンスのある先生の授業は、あとあとまで記憶に残るし、楽しい授業になると思います。私の経験した国語の授業でいうと、一見、自由に発言できるような授業でも、「この話の読み方はこうです」と断定される先生もいらっしゃいましたけど、そうじゃない先生のほうが楽しかったし、教科書以外の話を読んでみようと思うきっかけになったような気がします。
これは社会人にも当てはまることだと思いますが、自分で何かしてみようと自発的に始めることが大切なのであって、無理にする、させるという手法では、その人の学びにとって効果が望めないということですね。
はい。知らないよりは知ってるほうがいいし、やらないよりはやってみたほうがいいとは思うんです。でも、やりたくない子に無理して薦めてもしょうがない。読まないより読んだほうが新たな世界を知ることもできるんだろうけど、読むのが苦痛で苦痛で仕方がないという人に無理に薦めてもどうなのかなっていう気がしているんです。ただ、その人がなにかを必要だと感じた時に、「そういえば」と助けになるような知識や情報をさりげなく与えておいてあげる。事態を解決する方法を自分で見つけられるような、好奇心や思考力を育ててあげる。それこそが人間にとって大切な教育ではないでしょうか。中学生の頃は全然だったけれど、大人になって本好きになったという人はけっこういますよね。あせる必要はないと思います。(了)