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「漢字の現在 リアルな文字生活と日本語」の内容より

はじめに

はじめに

 漢字は中国の文字である。そして漢字は象形文字である。漢字は表意文字である。漢字は奥深く、記号とは違うものだ。ゆえに漢字は表現力に富む。漢字を使うと単語を強調して表現できる。

 漢字に関する言説は、世上にかくのごとく、決まり文句やときに格言のようになって流布している。どれをとっても、その通りだと言えそうだが、実際に日本で使用されている一つ一つの漢字に、きちんと当てはまるものだろうか。漢字には多面性が付与されており、個々の例をよく観察したならば、すぐに疑問を差し挟まざるをえないものが目の前にあったことに気付くに違いない。

 では、日本の漢字とは何なのか。一言で済むまとまった答えがすぐに浮かぶわけではない。それを知るために、まずは漢字を客体化し、対象として観察をしてみる。漢字は強大な力をもっているため、そこに巻き込まれては耽溺するばかりとなりかねない。他の文字とも相対化させてみる。それとともに、自身の記憶にある経験や意識について内省を試み、ときに他者にもそれらを尋ねてみる。研究は、苦心の連続であるが、そこには愉しみもあるのかもしれない。

 日本語の表記の多様性は、世界に例を見ないものだが、そこにはいくつかの理由があるようだ。たとえば、「紫陽花」という表記は、漢字が単語を目立たせ、植物の美しいイメージを膨らませてくれて好きだ、という人がいる。一方で、その当て字のせいで、特定の色や花そのものなどにイメージが限定されて嫌だ、という人もまたいる。そして、ひらがなの「あじさい」には、カタツムリがついていそうだ、と連想を加えて讃える声も複数ある。一方では、外食の料理コースの名前のように感じられてしまう、とも聞く。さらに、カタカナの「アジサイ」は、まるで図鑑のようで、硬くて嫌いだとも言う。一方では、これこそ植物の名前らしくて最もふさわしいと褒めて語る人も確かにいる。これが日本人の現実である。表記の多様性がさらなる個々人の感性の多彩さを生み、それが人々の間で再生産され、さらに相互の感性と触れあい揺さぶりあっていくという循環をもたらしているのだ。

 日本の文字には、それぞれに正誤、美醜、さらには良い悪い、硬い軟らかい、冷たい暖かい、好き嫌いといった意識や感覚が与えられることがある。それらの視覚情報と心理が意味と発音とをもつ語の表記ごとに、因子となって強弱を伴って作用する。表記体系の中で、いくつもの因子がせめぎあいながらいずれかの表記を支えているのである。個々の語の表記ごとに、個々人の心に何らかの理由があるようだ。複雑な状況から、俗解も当否は別として次々に生まれる。そういう心性が多彩であることを考慮せずに、理論的にのみ日本の文字・表記とは、と結論を構築していく手順も可能であり、体系や構造などを把握するうえで大きな意義があるが、それは人が生み出す実際の文字・表記を前にして用をなしにくいものとなりかねない。

 本書は、三省堂のホームページにおいて連載した「漢字の現在」と題する記事をもとに編纂されたものである。単行本化するに当たって、内容にだいぶ手を加えた。文章にも大幅に加筆したほか、写真もいくらか入れ替えてみた。日々、漠然とあるいは個別に去来し、忙しさの中で消えていくようなことがらが、その定期的な執筆のお陰で対象化され、思索を連鎖させたり、考えをまとめたりするきっかけとなった。それらを記録することが習慣となり、目的意識が明確になることもあった。外出先でも、これは、という感受性がいくらかは高まったようにも思える。調べ、考える苦労や楽しみ、方策をあえて書き残してみた。どうやって細々とした調べごとをしたり文章を書いたりしているのか、ときに尋ねられることがある。その過程はさまざまであるのだが、机の上での呻吟だけではない。マニアックな愛玩にも、ただの苦しい実験にもなってはいけない。その経過や結果の一端が、形になりきれないものを含めて本書のあちこちに表れることであろう。

 過去の漢字の状況を知ろうとすると、百年前、いや三十年前であっても意外と材料が少ない。人々の記憶はおろか、図書館にも博物館にも残らないままに、時の流れと人の営みの中ですぐに過去のものとして折り重ねられてしまうのが「現在」というものである。漢字の現在について、多少なりとも自己、そして自身の置かれた土地の言語の内と外から記述を残すことを通して、文字とことば、そしてそれの織りなす表記を生み出し、使いこなそうとしている人間というものについて、一緒に考えていってもらえるならば、この上ない幸いである。