前々回に正書法の一般的な諸原則について簡単に述べた。今回からはドイツ語の正書法について具体例をあげながら更に詳しく見てみたい。
言語の本来の姿は音声言語であり、文字による書記言語は二次的なものである。このことは世界の自然言語の中には文字を持たないものが少なくないが、反対に、文字によって書記されるだけのものは存在しないことからもわかる。従って、正書法は音声言語を文字によって記録しておくための規則集であり、世界の文字の中でも表音文字が普通であるのもそのためである。
音声を文字によって記録するとは言っても発音された音(おん)をそのまま記録するのではない。また、それは実際には不可能である。文字による記録は、言語的意味の区別に役立っているような、言語の音声面での体系、構造をなしている要素を文字によって記録するのである。これを音素と言う。例えば、ドイツ語ではich [Iç], echt [ɛçt], ach [ax], doch [dɔx], Buch [bu:x]などにおけるchは、ここでは合字で1音を表しているが、発音記号を見ればわかるように、[ç]と[x]の2つの異なった音を表している。これは、[x]は母音a,o, uの後で、[ç]はその他の位置で現れるから、これらは環境による違いであり、その違いは相補的分布をなしているので、音素としては1つと見なすことができるからである。ちなみに、同じ[ç]でもiとeの後では調音点が異なるので微妙な違いがあり、また、[x]の場合も同様であるから、音声記号といえども音(おん)を忠実に再現するものではない。また逆に、意味の区別を担っていないような音声的違いをいちいち表記していては読みづらく実際の役に立たないのである。
印欧語の表記に主として使われるローマ字は26前後であるが、この数は多すぎて文字自体を覚えるのも難しいというわけではなく、また、少なすぎて区別が曖昧になってしまうといったこともない、経験的に出てきた適当な数であろうと思われる。