口にするのがはばかれることばってありますよね。性や排泄,そして死に関してそのものズバリの表現はできれば避けたい。ほかにもタブーとなることばはあると思います。そのことばを口にするだけで,気まずい思いをしたり,場違いな空気を作ってしまったりするものです。
しかし,どうしてもそういった対象に言及せねばならないときもあります。たとえば,医者から排泄にかかわる問診を受けるとき,お互いにどのようなことばを使うでしょうか。日頃あまり口にはしない「排便」や「排泄」ということばを使ってみたり,「お通じ」と上品にやり過ごしたりするんじゃないでしょうか。
「排便」(何度もスミマセン)は,日常的ではない硬い文体によって,卑近なことばを使うことに伴う不快さをいくらかなりでも避けています。高尚な話をしているかのようにふるまうわけです。漢語などフォーマルなスタイルを使ったり,外来語を利用したりして日常語からスタイルを変更するのは,婉曲のための有力な手段です。
他方,「お通じ」は比喩を用いてタブー語を避ける方法です。何が「通じる」のかは明かしません。ぼかしてそっとしておくわけです。そのうえ美化語の「お」で上品な雰囲気を添えています。
上品に会話を進めようとすると,しばしば私たちはこのような婉曲の方法に頼ることになります。婉曲法には,スタイルを変えるか,比喩を使うか,大きく分けてそのふたつのオプションがあります。ここでは比喩表現に焦点を当ててみます。タブーを避けるために私たちはどのように比喩表現を使い分けているでしょうか。
私の先輩の瀬戸賢一さんは『レトリックの知』(新曜社,1988)で次のように述べています。「婉曲語法に三つの主たる手段があり、一つは《見立て》による飛躍、二つは《すり替え》による横すべり、三つは《ボカシ》による目くらましである」(p.135)と。その例として「キジ撃ち」「手洗い」「用足し」の三つを挙げています。
「キジ撃ち」は登山家などが山で用いることばです。男子が戸外で用を足すことを言うそうです。用便の行為をキジ撃ち――鉄砲を構えて草むらでじっと待つ――に見立てたわけです。草むらで待ち構える姿勢の違いで,「大キジ」か「小キジ」か,表現を区別する人もいるようです。この表現の女性バージョンが「お花を摘む」というメルヘン的な表現です。こちらは花の大小に区別はありません。
次に,「手洗い」。私たちはふつう問題の行為の後に手を洗います。「手洗い」は,時間的に後続する行為によって,言いにくい先行することがらをすり替えました。
最後の「用足し」は,数ある「用」の中から排泄という特定の「用」を選び出します。「用」という上位語を使うことで,排泄という具体的な行為に言及せずにぼかしました。先ほどの「お通じ」と同じ仕組みの比喩です。
見立て・すり替え・ぼかしという分かりやすい名前で呼ばれていますが,これらはレトリックの分野で言うメタファー(隠喩),メトニミー(換喩),そしてシネクドキ(提喩)にそれぞれ当たります。比喩(転義形式)のなかでも中心的な3つです。
瀬戸さんのこの説明を読んだとき,なるほどと感心しました。これで婉曲表現を見通せる,と。ただ,小さな疑問がその後,浮かびました。たしかに,見立ては婉曲に使われます。たとえば,「あの世に行く」とか「永眠する」とかいう表現は,死を旅や眠りに見立てた表現です。しかしなぜ,わざわざ「キジ撃ち」という例なのか。「手洗い」や「用足し」のように誰もが知る表現ではありません。私自身,「キジ撃ち」になじみがなかっただけに,それが不思議だったのです。
その疑問が婉曲法に関して考える出発点になりました。次回以降ではまず,道具立てとなる見立て・すり替え・ぼかしの3つの比喩について,もう少しくわしく整理しておこうと思います。そしてその後は,これら3つの比喩が婉曲のトピック(排泄・性・死)に応じて使い分けられることを示します。また,婉曲という行為は,同質的なひとつの戦略にもとづいてなされるのではなく,少なくともふたつ以上の異なるアプローチがかかわることを明らかにするつもりです。
トピックの性格上,言いにくい対象に言及せねばならないことがたびたびありますし,「城の崎にて」以降,死に関する話題が多くなってしまいますが,その辺はご容赦を。