このところ、読書力やら、読解力やら、言語力やらに絡めたイベントが多い。この背景には国民読書年がある。実は今年は「国民読書年」である。改めて言わなければ、ほとんど誰にも通じないあたりが虚しい。
今年を国民読書年とすることは、一昨年の6月6日「国民読書年に関する決議」において衆参両院の全会一致で決議された。この決議では、人類は文字・活字によって叡智を継承・発展させてきた。だが、「活字離れ」という現状がある。そこで、読書振興のため、国をあげて努力する――と宣言されている(1)。
ただ、その実態については、奇しくも「国民読書年」に関連する一大イベント(2)の開催された4月23日に、「とくダネ!」(フジテレビ)で揶揄されていた。国民読書年にかかわる文科省の予算はゼロ。そのため、関連の財団(3)が細々とイベントなどを開催しているだけ。また、子どもの読書活動支援のために創設された「子どもゆめ基金」(4)は事業仕分けで99%縮減されてしまった。国民読書年に、これではいかんのではないか?――というのである。
これではいかんのは確かなのだが、なぜいかんのか? よく「読書は必要だ」といわれるが、なぜ必要なのか? そもそも読書とは、どのような行為を指していうのか? マンガを読むのは読書なのか、それとも読書ではないのか? これだけメディアの発達した時代において、紙媒体でなければ読書ではないのか? 新聞紙に書かれたニュースを読むことと、ネットでニュースを読むことは同じなのか、違うのか? ケータイ小説は?……このあたりを曖昧なままにしておくと、「読書は必要だ!」と主張したところで、あまり効果はないように思う。「必要だから必要なんだ」という循環論証では、なんの説得力もない。郷愁にとらわれているだけだと思われたり、出版業界のマワシモノではないかと勘ぐられたりするのがオチである。
いまフィンランドでは、日本のストーリー漫画が大流行している。4年くらい前までは英語訳の漫画が本屋に並んでいたものだが、3年くらい前からフィンランド語訳版が並ぶようになって大流行が始まった。最近では駅の売店にまで、最新刊の漫画本が並んでいたりする。学校の落書きにも、漫画の人気キャラクターが目立つようになってきた。特に中学生女子に人気のようで、私がフィンランドの中学校を訪れると、「私は漫画家になりたい。日本に留学して漫画家になる勉強をしたい。どうすればいいのか?」という質問を少なからず受けるようになった。
フィンランドの国語の先生たちは、当初は楽観視していた。「漫画を読むのも読書のうちだ」と余裕を見せていた。ところが、徐々に漫画の恐ろしさ――というか影響力の強さを思い知るようになる。だいたい、それまでのフィンランドでは、漫画といえばムーミン、アメリカ発の幼児向け漫画、あるいは新聞などに掲載される大人向け漫画くらいしか存在しなかった。若者向けの漫画は質・量ともに乏しかったので、若者が漫画にハマるということはなかった。要するに、漫画の恐ろしさ――というか影響力の強さを知らなかったのだ。漫画を読み始めた若者たちは、漫画しか読まなくなった。また、読書の習慣が身についていたはずの若者が、漫画しか読まないでいるうちに、その習慣を失うようになってしまったというのである(5)。
ことここに至って、フィンランドの国語の先生たちも「漫画だけではなく、本を読もう」と言わざるをえなくなった。そのためには、なぜ読書が必要なのか。漫画を読むことと、本を読むことがどう違うのか。なぜ「漫画だけ」ではダメなのか――といった問題を解決せざるをえない。
では、どのように解決したのか? このあたりについては、日本における国民読書年関連のイベント内容にふれつつ、次回以降で説明したい。
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(1) 決議内容については、(財)文字・活字文化推進機構のウェブサイトに詳しく紹介されている。//www.mojikatsuji.or.jp/link_5dokushonen2010.html
(2) 『子どもの読書活動推進フォーラム―国民読書年を迎えて―』於国立オリンピック記念青少年総合センター 主催は文科省と国立青少年教育推進機構
(3) (財)文字・活字文化推進機構のこと。
(4) (財)文字・活字文化推進機構が「細々と」行なっているイベントは少なからず、この基金によっていた。
(5)2009年11月、Pirjo Sinkoフィンランド教育庁国語専門官より聴取。