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「言語学大辞典」について

刊行の辞

 言語学という学問は,まだ十分固まっているとは言えない学問である.ことに 20世紀に入ってからの言語学は,理論めいたものを模索しつつ,それが真の意味の理論と言えるかどうか分からないまま,やがて20世紀は去ろうとしている.実にさまざまな人がさまざまな説を述べた.ともすると各自勝手に術語を捏造し自分の説を飾って,他を顧みない傾向がある.かくて術語は氾濫し,何らそれを整理統合することがなかった.この“理論”の乱立と生煮えの術語の濫造は,言語学がいまだ真の理論的基盤を獲得していないことを示すものである.

 しかし,言語学の分野の中で,音論は,他の分野に比し格段の進歩を遂げた.19世紀の「歴史的」言語学のもたらした成果は,ほとんどこの音論の分野の中であった.すなわち,比較言語学の確立や,その根底になる音韻変化の規則性の原理の発見など,すべて言語の素材である音に関するものであった.

 一方,文献学の中から誕生し発展した“言語学”は,文字に書かれた言語から生きている言語,話されている言語に眼を向けるようになった.話されている言語を観察し記述するには,まず,その言語の音声を対象としなければならない.音声学という言語研究の基礎的補助科学が起こってきたのは,このような要請に応えるためである.そして,音声学は,いかなる言語にも妥当する普遍的な学として,言語学の基礎を提供するように発展した.もはや,かつてヨーロッパ以外の諸国に派遣された宣教師たちの怪しげな表記に頼ることなく,世界共通の尺度を得るようになり,この新しい尺度をもって未知の言語の調査が活発に行なわれるようになった.さらに,音声学の知識の発展の結果,その知識に基づいて,それぞれの言語を形成する音の単位としての音韻を考える音韻論の発生は,それぞれの言語の記述に多大な便益を与え,その表記を簡便にした.

 音論の発展は,言語学を“科学”に仕立てたかのようであった.言語にとっては音のみが(また,二次的には文字が),我々の感覚にとらえられるものである.したがって,それは科学的に観察し,測定することができる.音声学は,そのように一つの立派な科学である.しかし,言語は音声の連続からなるが,音声の連続のみが言語をなすのではなく,音声の連続の中に顕現する一定の形が,一定の概念を喚起するところに言語が存立するのである.言いかえれば,一定の音形が一定の意味作用をもつところに言語があるのである.一方に感官に知覚される聴覚的形象があり,他方に脳中に生ずる概念作用があって,このまったく異質の2つのものの間をつなぐのが言語であってみれば,これを扱う言語学がはじめから困難を負わされるのは,当然予測されることである.

 言語に用いられる聴覚的形象(音形)を問題とする音論は,意味作用をなすものとしての音形を対象とし,その構造を観察し,その要素を分析する.この場合,意味は前提として背景に置かれる.すなわち,意味を直接の対象とせず,音形にもっぱら焦点を合わせる.したがって,その限りにおいて,客観的に処理することができる.

 これに反し,意味の方はそうはいかない.意味をもつ音形の単位は,ふつう,語とよばれる.言語学の本当の対象は,語であると言ってよい.語は、単独で機能することもあるが,本質的には,他の語と結びついて活かされる.語と語との関係は,その語の形に示されることもあるし,語の結びつき方に示されることもある.前者を扱う部門が形態論であり,後者を考えるのが統語論であり,この両者がいわゆる文法をなす.この文法という領域でとり扱われる現象は,すでに背景の意味に照らしてはじめて理解されるものである.しかし,文法現象は,やはり語の形態や配列という音声連続の中に顕現する形を論ずるものであるから,比較的,客観的に処置することが可能である.といっても,形はその形の使用される方法,すなわち機能によって規定されるものである以上,意味の関与する部面が必ずあり,音論のように純粋に形式的に処置することはできない.また,音論において音素という概念を導入したのにならって,形態論においても形態素という術語を鋳造したが,形態素が形態素としてなり立つのは,その形よりもその機能による.その機能には純粋に形式的な統語的機能もあるが,多くの場合,その形式的な機能に意味的な機能が加わる.一般に,意味が介入すると,物的な音のように形式的に処理することが難しくなる.他方,語の機能は言語によってさまざまであって,必ずしもいかなる言語にも妥当するような機能が得られるとは限らない.したがって,音論における音声学のような共通の尺度は得られない.文法における普遍者(universals)の探求は今後も必要であるが,いわゆる一般文法の成立する可能性は極めて薄い.かくて20 世紀の文法理論では,賽の河原に石を積む試みがくり返されているのである.

 それでも,意味を背景にすえて語形の構造をみたり,あるいは,いくつかの語が形づくる文の構成を考えたりすることはできる.これが文法の主要な仕事であり,言語学の核心でもある.というのは,音論そのものはあくまでも言語の素材を論ずるものであり,言語の正体は意味作用をもつ音形にあるがゆえである.

 音論の成果に自信をもった言語学は,音論の成果の類推を意味の面にも求めようとした.20世紀の言語学の始祖であるソシュールは,言語の単位を,聴覚映像(音)と概念(意味)の結合とみ,前者を能記(signifiant),後者を所記(signifie)とする記号とした.この考えは,常識と一致する.我々は,「この語は…‥の意味をもつ」と言う.あたかも音と意味とが対等な関係にあり,それらが合体して1つの物をつくっているかのように言う.しかし,実際には,そのようなことはない.現実には,話し手の一定の調音活動によって発音されたものの中に一定の聴覚的な形が生まれ,それがそれぞれの社会の中で慣習的に聞き手の脳裏に一定の概念を喚起するようになっているのであって,そこにはその形に連合した意味作用(signification)があるだけで,別に,意味というものがあるわけではない.

 概念だの観念だのというものは,頭の中にあるもので,音のように,客観的に観察したり測定したりできるものではない.したがって,ここに音論における音素のような単位を抽出することは許されない.世にそれができるかのように信じて意義素などという単位を設定する向きもあるが,「意味」を分析するといっても,実はそれは,意味となる概念を分析しているのである.かくていわゆる“意味論”と称するものは,はかない試みでしかない.

 このように,言語学の対象である言語は,等質的な要素からなるものではない.それは,物理的なものの形而上学的な使用にある.したがって,本来,他の学問のような科学的処理に向かないものである.しかし,19世紀以来,言語学は言語の思弁的論議を排して,実証的学問たらんとしてきた.実証的であるためには,具体的な個々の言語に示される言語事実を観察し記述しなければならない.言語学の理論は,高遠な哲理よりも,具体的な言語事実の記述の方法に関するものであるべきである.言語の本質を云々する議論は,哲学者に任せればよい.哲学者たちは,言語についてしばしばよいことを言ってくれる.しかし,多くの場合,それは記述の技術には役立たない.ソシュールが,20世紀の言語学の始祖と崇められるのも,常識的で分かりやすい,技術的な術語をいろいろ作り出したところにある.曰く,ラングとパロール,曰く,共時態と通時態,等がそれである.

 このような記述の技術のための理論という点では,音論は上述のようにかなり進歩してきたが,他の分野,たとえば,文法などでは,音論のような普遍的な方法はなかなかとりにくい.というのは,各々の言語は,それぞれ固有の範疇をもっているので,すべての言語に妥当するような普遍的な文法範疇は得られないからである.すべての言語を普遍的に扱うには,より多くの言語を知らなければならない.従来の文法理論は,何といっても印欧語に即して考えられてきたものばかりで,他の系統ないし類型の言語について,必ずしも十分に適用できるものではない.そこで,さまざまな言語に見られる新しい言語事実を,もっと多く知る必要がある.言うまでもなく,言語理論は言語事実の正確な知識に基づいて構築されるべきものである.20世紀になってから,アジアやアフリカの一部,南北アメリカ・オセアニア等のいろいろな言語の調査が試みられ,数々の言語事実が紹介されたが,なお多くの言語が,言語学による解明を待っている.これらの言語が同じ密度で解明されてはじめて,真の意味の言語学が生まれると言っても過言ではない.

 翻って日本の状況はどうであろうか.この国では,あいもかわらず欧米の新説を輸入し,これを追うことに汲々として,依然として後進性を発揮している.この器用貧乏の後進性は,どうやら宿命的なものらしい.最も不思議なのは,どこの国でも言語学の新しい“理論”を提出するには,まず自国の言語の言語事実から汲み出すのが普通であるのに,この国では,あたかも日本語は言語ではないかのごとくに,英語やフランス語,あるいはその他の言語についてあげつらっていることである.一方,その日本語は,いまだに言語学的に正当に扱われていない.いわゆる国語学は,そのまま日本語の言語学にはなっていないのである.もうそろそろ日本語に基づく言語理論が出てきてもいい頃である.

 言語事実に関しては,我が国においては,第2次大戦中,アジアの国々との接触が深まるにつれ,これらの国々の言語の研究が試みられるようになった.そして,戦後も,いまだ知られなかった言語を専門に研究しようとする若い人々が段々に現われるようになった.別して,東京外国語大学に附置されたアジア・アフリカ言語文化研究所と,大阪の国立民族学博物館の設立は,アジア・アフリカ等の言語の研究の発展に資すること多大であった.本辞典の「世界言語編」および「世界文字編」に,かなり確実な言語記述を含むことができたのも,各地の大学とこれらの機関に所属する研究者諸氏の寄与に負うところがまことに大きい.このようにして,言語の知識の範囲が拡大され,言語事実の蓄積が増大していくことが望ましい.

 以上のような状況の下で,『言語学大辞典』を編纂することには,いかなる意味があるのであろうか.いましばらく待って,言語学の帰趨が定まったのちに,その総括として辞典をつくるべきかもしれない.しかし一方,言語に関する知見がかなり増大した今日,それを見やすい形に展望することが,将来への飛躍に役立つことも確かである.本辞典の編纂が企画されたのは,このような趣旨からである.

 顧みれば,企画立案からやがて10年になんなんとする歳月が過ぎた.思えば長く,思えば短い.企画推進に当たっての諸調査を含む準備活動,編修方針や編修要綱の策定とそのための度重なる編修会議,項目の選定等々,充実した日々があった. 執筆を開始して足かけ6年,執筆者ならびに編修部の熱意と意欲が企画を拡大・充実させる結果となり,巻立ては数次にわたって変遷をみた.現在,ようやくその全貌を明らかにし得た本書の構成は,4部,計6 巻,すなわち次のごとくである.

世界言語編 上・中・下/世界文字編(含,言語資料・総索引)/術語編(含,書名・ 人名)/世界言語地図編

 本書は,言語研究の現状に鑑み,統一のための統一を旨とはせず,編修上の制約より執筆者の意向と判断を優先させた.したがって,執筆者各位の立場や観点,研究史的背景によって,項目間に必ずしも矛盾なしとはしない.それもまた,今後の研究に課題を提供することとなる.ただし,編修部の需めに応じて比較的早期に原稿を寄せられた方々と,編修の進展に応じてより質量を広げて原稿を執筆された方々との間に,また,執筆者本人の現地調査や自らの研究に基づいて執筆された項目と,専門からやや離れた言語について世界各国の先達の研究に基づいて検討・整理された項目との間に,多少の粗密・深浅・長短のあることはやむを得ない.それが内容の質に比例することを必ずしも意味しないことはもちろんである.

 ともあれ,多くの方々の膨大なエネルギーと真摯な努力によって,かつてない規模で言語研究の成果を盛り込んだ『言語学大辞典』が,今ここにその刊行を開始する.

 この間,有形・無形の多面的な援助を与えられた,三根谷 徹・北村 甫・西田龍雄・南不二男・風間喜代三・上村幸雄・松本克己・土田 滋・上野善道の編修委員各位をはじめとする少なからぬ方々,ならびに,各種の困難の中で,世界各地でのフィールド・ワーク,文献研究等を含めた多くの研究成果を結実された数多くの執筆者各位,そして,本辞典の執筆を絶筆とされた故橋本萬太郎氏に,心からの感謝と敬意を表したい.

 さらに,この企画の立案と推進にあたって,当初経営上の困難の中にあって本企画決定の勇断を下され,その後の曲折ある編修を終始支えられた三省堂会長上野久徳氏,および,社長守屋眞明氏をはじめとする同社の経営の任に当たられた諸氏,ならびに,企画立案から編修・集稿・校正・内容整備等に日夜献身された三省堂編修部の方々,膨大な特殊活字の作成を含む困難を極めた組版・印刷に奮闘された三省堂印刷株式会社・三協整版株式会社等々,多くの方々に本書は支えられている.ここに深甚なる謝意を表するものである.

 本辞典が,言語研究の豊かな発展と,日本語学の真の前進,国際的視野へむけての日本文化の伸展・充実の礎石となることを切望する次第である.

   1988年1月

言語学大辞典編修委員会
亀 井   孝
河 野 六 郎
千 野 栄 一

注:巻構成は当初の予定から変更されました。