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「言語学大辞典」について

世界言語編の序

 言語学辞典としては,この世界で話されている,あるいは話されていた言語に,どのような言語があるか,それについての情報を盛ることは必要不可欠な要件である.もちろん,現在なお,あらゆる言語についてその概要を知る段階には至っていない.いまだ十分に調査されていない言語の研究から,多くの有益な言語事実が知られるようになる可能怯もある.しかし,今日の我が国において知ることのできる言語の数は,すでに案外少なくない.本辞典に,約3,500言語を収録することのできたことは注目すべきことである.それは言語研究者の人口の増加とともに,未知の言語への憧れが,洋の東西を問わず,種々の言語の調査へと若い研究者を赴かせた結果である.本辞典の「世界言語編」は,このような人々の真摯な協力の賜物であって,本辞典の柱の一つである.これにより,将来の言語研究のための安定した基礎が築かれるにちがいない.

 「世界言語編」では,今日,直接・間接に知ることのできる言語について,その全体像の能うかぎり正確な概観を提供することを編修の方針とした.すなわち,各言語の名称(言語によっては,自称と他称の別があることがある),その分類(系統的分類の明らかなものは,その語族・語派等,いまだ系統関係は明らかでないが同系の可能性のあるもの,あるいは,系統関係は明らかにならないが共通の類型的特徴のあるもの,さらに,地理的に隣接していて一括して述べるのが便利なものなどは,諸語その他としてまとめた),それぞれの言語の現状−どの地域にどのように分布しているか,そしてそれを話す人口はどのくらいあるか−はもちろんのこと,それぞれの言語の内的な特徴−音韻・文法(形態と統語)・語彙の特徴−を最も重要視したことは言うまでもない.また,その言語が文字をもち,過去の記録をのこしている場合は,その歴史的展開の跡を概観し,さらに,その記録が文学作品である場合にも,必要に応じてその主なものに触れた.その他,その言語の研究史にも可能な限り言及した.なお,言語は,それを話す人々によって文化的ないし社会的意味が異なることがある.たとえば,今日の英語は,単にイギリスやアメリカの言語に留まらない.それは,いまや世界語の域に達しようとしている.こうしたいわゆる大言語に対して,ごく限られた地域にだけ用いられている言語もある.また,たとえばシュメール語のように,かつては古代の王国の言語として栄えた言語で,今日跡形もなく消えてしまったものもある.このような大言語も小言語も,また現在用いられている言語も死語も,言語学的な記述の対象としては全く同等の意義をもつものであり,本辞典ではこれらを差別なくとりあげた.その他,特に我々の言語である日本語と関係のある言語については,その関係を指摘することにした.

 各言語の記述においては,できるだけ具体的であることを主眼とした.言語の概観ということになると,紙幅の制限などからとかく抽象に流れ,その言語の特徴を把えにくくなるきらいがある.本辞典では,各言語の特徴が概括的にせよ把握できるように,必要に応じて紙幅を提供し,具体的な用例を盛りこむように努力した.ことに,執筆者が自分自身で直接に調査を行なった言語については,その貴重な原材料を活用することを依頼した.したがって,それらの項目はかなり長大なものとなっている.もとよりあらゆる言語についてこのようなことは望めないが,間接的に知っている言語についても,なるべく最新の情報に基づいて確実な記述を懇請した.また,英語・ドイツ語やフランス語など,すでに研究がかなり進み,多くの情報の蓄積が目にふれるかたちで行なわれている言語については比較的簡略に扱い,これまで十分な記述がなされたことのない言語について,より大きな紙幅をあてるようにつとめた.

 本辞典は,我が国ではじめて編修・刊行される本格的な言語学辞典であるから,我が国での過去の実績を十分に活用することも編修の一つのねらいである.日本語に焦点を合わせると同時に,やはりその地理的位置や文化的・社会的な交流関係から,日本の近隣の諸言語,すなわち,中国・朝鮮・モンゴル・ツングース・ヴェトナム・タイ・インドネシア等,東アジアおよび東南アジアの諸言語の記述に力を入れた.これらの地域の言語は,従来,我が国の言語研究者の関心の中心におかれていたので,多くの言語事実について,執筆者自身の研究も含めて実質的な菩積があった.さらに,本辞典の執筆のために,現地調査を含め,研究を発展させることができた言語も少なくない.

 一方,アフリカ・オーストラリア,あるいは南アメリカなどの,言語学としては未開柘の地域の言語に,最近,現地に赴いて調査を行なう若い研究者が出てきたことは誠に心強いことである.これらの地域を含むいくつかの地域の言語については,個々の言語の記述のほかに,その地域の諸言語の最新の研究状況を大項目として展望することも試みた.これは,これらの諸言語の将来の研究の基礎となるものである.

 このようにしてここに集積されたひとつひとつの言語記述において,その系統分類のあり方や,個々の言語事実のとらえ方等をめぐって,執筆者間に判断や解釈のちがいがみられることも少なくなかった.しかし,そのような記述のずれは,それ自身が研究の現状の正確な反映であり,その意味において,それらの統一をあえて行なわない場合があった.

 本辞典の「世界言語編」を今後の調査・研究の土台として,世界の諸言語の記述的研究・比較研究などが,さらなる発展をとげることを希望してやまない.

   1988年1月

言語学大辞典編修委員会
亀 井   孝
河 野 六 郎
千 野 栄 一